Japan Radio Museum   | お問い合わせ | リンク集 | ENGLISH |

ホーム博物館(松本)案内 活動方針 ラジオの図書案内


玉音放送とラジオ
Radio at End of the War
1945.8.14-15


CONTENTS

解説編

玉音放送までの経緯 

玉音盤と放送内容 (加筆訂正)

昭和天皇が玉音放送を聞いたとされるラジオ(同型機)
  RCA Victor Model 12X トランスレス5球スーパー(1940-42)

一般国民にとっての玉音放送:受信状況など 

聴取者の証言から見る玉音放送 (加筆訂正)

「雑音がひどかった」玉音放送の謎 

玉音放送を伝えたラジオ 
  放送局型123号(臨時許容)型受信機 白山無線電機(株) (1944) :当時の一般的な家庭用ラジオ

玉音盤のその後 

資料編

大東亜戦争終結ノ証書

終戦の詔書、現代語訳  

同 帝国政府による英訳 (The Imperial Edict of the End of the War)

内閣告諭 (NEW)

参考文献 (追記)

HOME


玉音放送までの経緯

1945(昭和20)年8月10日午前6時45分、日本政府はポツダム宣言の受諾を外交公電として連合国に向けて通告した。同日午後8時過ぎに外務省からの指示で同盟通信社のモールス通信と、放送協会の海外放送(いずれも短波)で通告文書が放送された。国内での短波受信は禁止されていたので、大半の日本人より早く、短波受信機を持つ連合国側(だけではないが)の国民にはポツダム宣言受諾が知らされたのである。この通告に対する連合国側の回答を待って14日午前10時50分、ポツダム宣言受諾が確定された。このあと「終戦の詔書」の作成が進められ、昭和天皇自身の録音によるラジオ放送で国民に伝えられることも決定していたので、録音の準備も進められた。しかし、詔書の文章の確定に手間取り、内閣の署名が完了して詔書が成立したのは14日午後11時になっていた。文末に詔書を掲載したが、原文の日付は8月14日である。このあと、連合国宛に通告されるとともに、詔書朗読の録音が宮内庁内で行われ、「玉音盤」が完成した。玉音盤は15日朝まで宮城(皇居)内宮内省庁舎に保管されることになった。

14日午後9時、実際には詔書はまだできていなかったが、放送は翌15日正午に実施されることが決定していたので、ニュースの時間に国民に向けて予告放送が実施された。この予告では天皇みずから放送されるということが知らされたが、内容には一切触れていない。予告は15日朝にも2回実施された。内外に展開中の軍の部隊に対しては、大本営より予告が行われた。

14日深夜から15日の早朝にかけて、一部若手陸軍将校による近衛連隊を動員した玉音放送阻止を目指した反乱が発生したが、宮内省を捜索しても玉音盤は発見できず、内幸町の放送会館を占拠した部隊も自らの意思を放送することはできなかった。反乱は朝までに東部軍司令部により収拾された。

1945(昭和20)年8月15日正午、昭和天皇自らが録音した「終戦の詔書」の放送をもってポツダム宣言受諾が、日本国民に知らされた。
多くの日本国民にとっては、初めて聞く天皇自身の声による放送というインパクトによって、現代まで、この日が「終戦の日」と認識されている。天皇の声=玉音を放送したことから、この放送は「玉音放送」と呼ばれている。

玉音放送の直後に、大本営は侵攻作戦の停止を指示し、翌16日には即時停戦を発令した。

国際法上は9月2日、戦艦ミズーリ号上での降伏調印をもって、正式に終結とするのが正しいが、実際にはその前の8月30日に連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着し、占領軍の日本進駐が始まっているため、降伏調印は戦争の終わりというより、占領の始まりというイメージがある。

 終戦のいきさつについては半藤一利氏の「日本のいちばん長い日」をはじめ、多くの文献が発表されている。
玉音放送および終戦工作の詳細については参考文献を図書案内に紹介しているので、そちらを参照されたい。
また、本稿で参照した文献を文末にまとめた。

「日本のいちばん長い日」は、1967年に岡本喜八監督により映画化された。全編モノクロフィルムでドキュメンタリータッチに仕上げられた重厚な作品である。

これに対し、終戦70周年を迎える2015年8月8日に、原田眞人監督による同名のリメイク版が公開された(公式サイト)。
本作には、当館もラジオ、放送設備などの美術協力の形で参加している。
前作と題材は同じだが、主要な登場人物の人間的な側面を深く掘り下げた作品となっている。
また、前作では不可能だった昭和天皇を一人の人間として描くことが可能となったことが注目される。

TOP


玉音盤と放送内容

 放送は録音で行われることが決まり、8月14日午後には放送協会が皇居内の宮内省(現宮内庁)庁舎内に設備を用意したが、詔書の内容が決まるまでに時間がかかり、詔書朗読の録音は当日深夜となった。
実際の録音には日本電気音響製の携帯型録音機を4台使用した。この録音機2台を1組として録音アンプに接続したシステムが2系統用意された。
マイクからの信号は2系統の録音機に並列に入力され、同時に2系統に同じ音声が録音された。録音盤はこれも日本電気音響製のアルミベースにニトロセルロースを主成分とするラッカー層をコーティングした10インチ盤である(4)。1枚3分録音できる盤に連続して録音するために1枚目の盤に2分ほど録音した時点で2枚目の盤に針を落とし、1分ほど重ねて録音するやり方で記録された。
詔書の朗読にかかる時間が不明だったために録音盤は余分に用意されたが、実際には2枚に収まった。これにテストに使用した盤1枚を含めて1回の録音で6枚の盤が使用された。

録音は2テイク録られ、正、副とされた(1)。2テイク目は収録時間、音声レベルなどが判明しているためか、テスト盤は1枚だけで5枚の盤が使われた。したがって「玉音盤」は正6枚、副5枚、計11枚存在する。
放送当日の朝、玉音盤は正、副ともに宮内省から内幸町の放送会館に届けられた。正、副どちらの盤が実際に放送されたかは諸説あってはっきりしない。(7)

 詔書を朗読した「玉音盤」は、わずか4分半の長さに過ぎない。
このときの「番組」の構成は以下のとおりである(6)。

・正午の時報
・「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立を願います」(和田アナウンサー)
・天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します。(下村情報局総裁)
・君が代演奏
・詔書、録音盤再生
・君が代演奏
・「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村情報局総裁)

以降和田アナウンサーによる終戦関連ニュース
・詔書の奉読
・内閣告諭
・終戦決定の御前会議の模様
・交換外交文書の要旨
・ポツダム宣言受諾に至った経緯
・天皇の大御心による御聖断
・ポツダム宣言正文
・カイロ宣言
・終戦に臨んでの国民の心構え
・緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の経過)

番組全体は37分の長さであった。原稿はNHK放送博物館に保存されているが、番組全体の録音は、占領軍に対する配慮から翌16日には破棄されたという。後半のニュースは、当時の放送協会のニュース同様、同盟通信社からの配信をリライトしたものである(6)。

 「終戦ノ詔書」は「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ(略)」ではじまる漢語を多用した文語調の難解なものである。詔書の起草に当たった当時の内閣書記官長、迫水久常氏の証言によれば、本来、このような難解な詔書をそのまま電波に乗せる予定ではなかったという。ラジオ放送用の「お言葉」の起草に取り掛かったものの、前例がないことで天皇自身が国民に呼びかける口語体の文章を作れないままに時間切れとなり、詔書をそのまま朗読することになったという (8)。

TOP


昭和天皇が玉音放送を聞いたとされるラジオ(同型機)

 NHK放送博物館には昭和天皇が自身の放送を聴いたとされるラジオが保存されている。
当館にはその同型機が所蔵されている。

 RCA Victor Model 12X トランスレス5球スーパー  RCA Manufacturing Co., 1940-42年

  

12SA7-12SK7-12SQ7-50L6GT-35Z5GTという構成で5インチパーマネント・ダイナミックを駆動するトランスレス5球スーパー。
開戦直前のセットで、アメリカでは普及品である。
(所蔵No.11807)

TOP

 米国RCA Victor の普及型トランスレス5球スーパーである。メタル/GT管が使われている。
グアムで捕獲した戦利品を献上したものであったという。このラジオには「グアム170号」と銘打ってあったという。(3)

昭和天皇は、当時宮殿が焼失したため、半地下の防空壕である「御文庫」を住まいとしていた。
皇后陛下はここで玉音放送を聞いたという。その時のラジオは「真黒なもの」という記述があるだけで明確ではない。当日は枢密院本会議が開催され、御文庫付属室内(地下防空壕)の地下会議室の御休所(控室)で聞いたという。(1),(3)
放送時間中は会議が中断され、会議に出席していた枢密顧問官は会議室外の廊下に整列して天皇とともに放送を聞いたという(1)
厚いコンクリート造りの半地下室内で、外部アンテナを伸ばすだけでよく聞こえたという(1)。

 ポツダム宣言の受諾に関する通信を行った、旧東京放送局(愛宕山)にあった外務省の施設ではこれも最後の交換船で運んだ米国製の「スーパープロ」受信機が使われていたという。肝心なところでは敵であった米国製のラジオを使っていたというのも皮肉な話である。

TOP


一般国民にとっての玉音放送:受信状況など

 この「重大な放送」は、14日9時のニュースで最初の告知が行われ、その後も当日朝から繰り返し告知放送が行われた。また、送信所の増力、夜間送電のみの地域にも特別に送電するなど、聴取率100%をめざして対策がとられた。
玉音放送の聴取者の証言は数多く残されている。勤務していた軍人は軍の部隊で聞いたものが大半だった。当日は水曜日であった。このため、通勤、通学していた者は学校や、職場などの拡声装置やラジオで聞いていた。学校は夏休み期間中のため、小学生や勤労動員がなかった学生は自宅や地域で聴いたようである。このほか、街頭や駅など、あらゆる場所のラジオとスピーカが動員された。
個人や家族で自宅のラジオで聞いたという人もかなりいたようだが、多く残されている写真は、屋外に引き出されたラジオの周りに近所の人?が集まっているものである。ラジオの普及率が低かったり故障が多かったため、このような聴き方をした地域も多かったのだろう。(2)
村にラジオがないような山村では、大人だけが全員ラジオのある町まで歩いて行って聞いたという(昭和館解説ボランティアの男性(77歳)の証言による)。
この放送の聴取率はかなり高かったと思われるが、実際には聞かなかった、忘れたという証言もある(7)。また、放送中も仕事の手を休めなかった人がいたという記録もある(11)。

TOP


聴取者の証言から見る玉音放送

 ここで、当時の聴取者の証言を紹介する。

8月15日正午の記憶 当時20歳、女、青年学校教師、住所:神奈川県川崎市 向ヶ丘

当時の様子は?

暑い天気の良い日だった。当時新任の教師だった私は、出勤していた学校で、校長から「正午に重大な放送があるので校庭に集合すること」という指示で同僚の教師とともに校庭の朝礼台の前に整列した。夏休み中なので生徒はごく少数が登校していただけだった。放送は大きな音で良く聞こえた(注:学校の拡声器を使ったと思われる)が、言葉が難しく、お声も聞き取りにくく、意味は分からなかったが、「耐え難きを耐え」などのはっきりとした部分は聞き取れた。
陛下の御放送が終わると、ラジオは静かになった。自分は意味が分からなかったが、同僚には理解できた人もいたらしく、「戦争が終わった」ということがわかってきた。血気盛んな男性の同僚には興奮して荒れている人もいたが、私は、とにかく終わってほっとした。これでゆっくり寝られる、という思いが強かった。その日の夜から(燈火管制を無視して)電気をつけるようになった。ただ、15日にも空襲警報が鳴ったので今までの習慣通り電気を消して避難した。飛行機は1機だけで爆撃はなかった。

戦争に負けると思っていましたか?

当時農村だった向ヶ丘の学校の向かいには「農耕隊」と呼ばれる「兵士」が駐屯していた。彼らは招集された40―50代の男性で、丸腰で男手がいなくなった村の畑の手伝いをしていた。敵襲があっても何もできないでうろうろするだけの一応「兵隊さん」を見ていて、「これで勝てるのかな」という思いはあった。けれども、戦争に負けるというイメージはなく、玉音放送を聴いても負けたという思いはすぐには湧いてこなかった。

終わってほっとしたと思ったのはなぜですか?

のんびりした田舎には空襲はなかったが、艦載機が低空で飛んできて機銃掃射していった。昼間見通しの良い外を歩くのは危険だった。東京の実家に帰った時は空襲警報が鳴ると電気を消して庭の防空壕に飛び込むという生活だった。空襲に備えて服も着替えず、枕元に履物を置いて寝ていた。明かりも満足に点けられず、敵襲があったら逃げないと死ぬという緊張感の元で暮らしていたので、とにかく戦争が終わってほっとしたという気持ちが先だった。政治や戦争のことはよくわからず、いたってのんびりした性格だったせいか、宮城(皇居)前に行って土下座するようなことはしなかった。

 この証言者は女学校卒で、当時の女性としては高等教育を受けていたほうである。それでも比較的明瞭な放送を聴いても理解できなかったことがわかる。当時の国民の大半は理解できなかったのではないだろうか。実際の放送では、玉音盤の再生後にアナウンサーによる朗読、解説やニュースが放送されている。すべて良好に受信していれば正しく理解できたものと思われが、この部分を聴いたという証言はほとんどない。この証言のように、玉音の放送の後でラジオをすぐ切ってしまった事例が多かったようである。

 受信状態がよかった聴取者の中には、よく理解できたという人もいる。今、我々が玉音放送を良好な録音で原文を見ながら聴いても完全な理解はむずかしいが、当時は学校で教育勅語などの難解な漢文調の文章を暗誦させる教育が行われていたため、子供でも理解は容易であったという(木村哲人氏の証言による)。漢文の素養の有無が放送の理解に影響したようである。

もう一つ、インテリの若者の日記を紹介する。

山田誠也 当時23歳 医学生 東京都在住 終戦当時は学校ごと長野県飯田市に疎開

後の作家、山田風太郎である。山田は詳細な日記を残し、昭和20年の日記を、そのままの形で「戦中派不戦日記」(11)として1973(昭和48)年に出版した。これは、日記をそのまますべて当時のままに採録してあるという。

8月15日の日記にはあまりに衝撃が大きかったのであろう。
 「十五日 炎天 帝国ツイニ敵ニ屈ス」
と一行あるだけである。翌16日に山田は詳細な記録を残している。文中に、詔書や内閣告諭の内容を正確に記述しているが、これはラジオからの聞き取りではなく、新聞から採録したものである。山田は放送のために授業を切り上げた学校からの帰途、立ち寄った大衆食堂にラジオを囲む級友の姿を認め、食堂の主人家族と放送を聞くことになった。降伏を予想していなかった彼らは、内容よりも初めて聞く天皇の声に興味を持っていたという。
しかし、放送が始まり、声が聞こえると「ばねのように立ち上がり直立不動の姿勢をとった」学生たちは「ソノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」の部分が聞こえた段階ですべてを理解した。その後の気持ちの変化を日記から引用する。
 (詔書の引用、略)
なんという悲痛な声であろう。自分は生まれてからこれほど血と涙にむせぶような人間の声音というものを聞いたことがない。
 (詔書の引用、略)
のどがつまり、涙が眼に盛り上がって来た。腸がちぎれる思いであった。
 (詔書の引用、略)
魂はまさに寸断される。一生忘れえぬ声である。
 (詔書の引用、略)
十二月八日よりももっと熱烈な一瞬を自分は感じた。
御放送は終った。みな凝然と佇立したまま動かない。・・・・・
 (中略)
「どうなの?宣戦布告でしょう?どうなの?」
と、おばさん(注:食堂経営者の妻のこと)がかすれた声で言った。訴えるような瞳であった。
これはラジオの調子が極めて悪く、声が時々遠ざかり、用語がやや難解で、また降伏などという文字は一語も使用していないこと―などによる誤解ばかりではない。
信じられなかったのである。
日本が戦争に負ける、このままで武器を投げるなど、まさに夢にも思わなかったのである。
「済んだ」
と、僕はいった。
「おばさん、日本は負けたんだ」
 (中略)
ラジオは続いて内閣告諭を伝え始めた。真相は一点の疑惑もなく明らかとなった。
 (内閣告諭引用、略)
あ、思うてここに至れば痛憤限りなし。・・・・・
 (中略)
肩をもんで泣き続けるおかみさんの声をよそに、ラジオは冷静にポツダム宣言成文を読み上げている。
 (ポツダム宣言引用、略)
今ここに新聞より採録していても、歯軋りせずにはいられない。―しかもこれを聴くよりほかにない立場に立たされたのだ。
山田は、放送をすべて聴いている。玉音の後に内閣告諭、ポツダム宣言のアナウンサーによる朗読があったことを日記に書き残している。このような証言は珍しい。若いが、文語調で日記を書く、かなりの読書家であった山田にとっては「用語がやや難解で」あった程度で内容を理解できたようだが、食堂のおばさんには、受信状況の悪いラジオを通した放送の内容を理解できなかったようである。内容を理解できたとしても、熱血軍国青年であった山田に、降伏の事実を理解させたのは、難解な詔書の語句ではなく、天皇の「声」であった。天皇に近い人物の証言によれば、戦時中の昭和天皇には笑顔がなかったそうである(8)。内容が難解であっても詔書の朗読に込めた昭和天皇の気持ちはその「声」から伝わったのである。


 証言は様々だが、わずか5分の録音再生を含む37分のラジオ放送によって戦争状態を終えることがほぼできたというのは間違いない。二二六事件の解決にもラジオが大きな役割を果たしたが、この玉音放送ほどラジオの効果というものを明確に示した「番組」はほかにないだろう。

TOP


「雑音がひどかった」玉音放送の謎

聴取者の証言で最も多いものは、「雑音がひどく、よくわからなかった」というものである。
当時、防空用に実施されていた群別放送による受信障害や老朽化した放送局の設備と修理もままならないラジオといった悪条件の中で、ラジオのサービスエリアが狭まっていたことは事実である。しかし、当時真剣に聞いていたはずの空襲警報やニュースなどの放送が「雑音がひどくて聞き取れなかった」という話はほとんど聞かれない。確かに、空襲警報は決まりきった内容を声の通るアナウンサーが叫んでいるのだから、少しくらい音が悪かったり雑音あっても聞き取れるだろうが、それでも玉音放送だけに「雑音がひどい」という証言が増えるのは不思議である。

 一つ考えらるのは、良く聞こえるようにと、送信出力が目いっぱい上げられたために、群別放送による同一周波数の干渉による受信障害が悪化したのではないだろうか。これにより「雑音が多く、何を言っているかわからない」という結果になったと思われる。軍が同時に送信した短波通信による妨害という説もあるが、周波数の違いから見て送信施設のごく近くでない限りあり得ないだろう。

TOP


玉音放送を伝えたラジオ

当時広く使われていた受信機は高周波1段の放送局型受信機であった。

放送局型123号(臨時許容)型受信機 白山無線電機(株) 1944年

   

放送協会規格により各メーカで同じものが作られたトランスレス高一受信機。
12Y-V1 - 12Y-R1 - 12Z-P1 - 24Z-K2 - B-37の構成で紙製フレームのマグネチックを駆動する。
このデザインは大戦末期のもっとも簡略化されたものである。

 (所蔵No.11529)

 同じ普及型受信機だが、上のRCAのスーパーと比べると彼我の格差がよくわかる。
このセット自身も玉音放送を伝えた1台であったのだろう。

TOP


玉音盤のその後

 戦後、玉音盤は宮内省に保管されたが、2組のうち正の録音盤は1946年に宮内省からGHQの命令で提出され、同年5月22日に返却された(1)。この時コピーが作成された。現在まで残っている玉音放送の音は、この時のコピー作業にあたった日本人技術者が余分に録音したものを持ち帰ったものといわれる。のちにこれがNHKに寄贈され、現代まで伝わっている(3)。この経緯が正しければ、現在残っている音声は「正」のほうということになる。
実際の音声はこちら(NHK戦時録音資料)

 玉音放送の録音盤のうち、「副」の6枚は放送50周年を記念して宮内庁からNHKに貸し出され、現在東京のNHK放送博物館に保存されている。
玉音盤の実物は剥落がひどく、再生することは不可能である。これは宮内庁の管理が特別悪かったというわけではない。録音盤は通常のSPレコードではなく、アルミ板に樹脂を貼った片面のアセテート盤である。これは長期保管を前提としたものではなく、耐久性が非常に低い。
玉音盤は放送博物館に収蔵された後、修復されて特別なケースに収納されて公開されている(9)。

 「正」の玉音盤はその後、宮内庁により皇室所蔵の「御物」として厳重に保管されてきたが、この盤からディジタル音声を取り出し、復元することに成功し、戦後70周年にあたる2015年8月1日に、宮内庁ホームページに玉音盤とその音声が公開された。
宮内庁に保管されていた終戦時の玉音盤は5枚であった。「正」の録音盤は、2回目のテイクのため、音声レベルや録音時間がわかっている。このため、1回目の録音で必要だったテスト盤が1枚不要だったのかもしれない。

 従来公開されていた音声に比べると、テイクは同じものだが、音声がクリアでひずみが少なくなっている。以前の音声では、盤の切り替わりと思える位置で音質が変化することがはっきりとわかるが、今回公開された音声ではほとんど感じられない。ある程度のディジタル信号処理が行われていると思われる。また、再生時間が数秒短くなっている。これは、再生時の微妙なスピードの誤差によるものだろう。

TOP


資料編


大東亜戦争終結ノ詔書(4)

注:内閣副署は省略、文字はJISフォントに準拠するため、原文と異なる。また、環境によっては正しく表示されないことがある。
なお、原文は改行が少ないが、ここでは読みやすくするため文章の切れ目ごとに改行してある。
(本資料は著作権法第13条の規定により著作権保護の対象となっていない。)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

以下内閣副署(略)

TOP


終戦の詔書 現代語訳 (8)(6)

現代語訳:松崎昭一(読売新聞社記者)、校訂:安岡正篤(漢学者)

わたくしは、世界の情勢とわが国が置かれている現状とを十分考え合わせ、非常の手だてをもってこの事態を収めようと思い、わたくしの忠良な国民に告げる。

 わたくしは、わが政府をもってアメリカ、イギリス、中国、ソ連の四か国に対し四国共同宣言、ポツダム宣言を受諾するむねを通告させた。

 そもそも、わが国民がすこやかに、安らかに生活出来るよう心がけ、世界各国が共に平和を繁栄していくようはかるのは、歴代天皇が手本として残してきた方針であり、わたくしの念願を去らなかったところでもある。したがって、さきに米英二国に戦いを宣した理由もまた実に、わが国の自尊とアジアの安定を心から願ったためであって、いやしくも他国の主権を押しのけたり、その領土を侵略するようなことはもちろん、わたくしの志とは全く異なる。この戦争がはじまってからすでに四年を経過した。その間、陸海将兵は各所で勇戦奮闘し、役人たちもそれぞれの職務にはげみ、また一億国民も各職域に奉公して来た。このようにおのおのが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしもわが方に有利に展開したとはいえず、世界の情勢もまたわれに不利である。そればかりでなく敵は新たに残虐な爆弾を広島、長崎に投下し、多くの罪なき人々を殺傷し、その惨害はどこまで広がるかははかり知れないものがある。このような状況下にあってもなお戦争を続けるなら、ついにはわが日本民族の滅亡をきたすようなことになり、ひいては人類が築きあげた文明をもうちこわすことになるであろう。それでは、わたくしはどうしてわが子どもにひとしい国民大衆を保護し、歴代天皇のみたまにおわび出来ようか。これこそわたくしがポツダム宣言を受諾するようにした理由である。

 ポツダム宣言の受諾にあたってわたくしは、わが国とともに終始アジアの解放に協力した友邦諸国に遺憾の意を表明しないわけにはいかない。また、わが国民のうち戦死したり、職場に殉ずるなど不幸な運命になくなった人々や、その遺族に思いをはせると、まことに悲しみに耐えない。かつ戦傷を負い、空襲などの災害をうけて家業をなくした人々の厚生を考えると、わたくしの胸は痛む。思えば、今後わが国が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くしがたいものであろう。わたくしは国民の心中もよくわかるが、時世の移り変わりはやむを得ないことで、ただただ堪え難いこともあえて堪え、忍び難いことも忍んで、人類永遠の真理である平和の実現をはかろうと思う。

 わたくしはいまここに、国体を護持し得たとともに、国民のまことの心に信頼しながら、いつも国民といっしょにいる。もし感情の激するままに、みだりに問題を起こしたり、同胞がおたがいに相手をけなし、おとしいれたりして時局を混乱させ、そのために人間の行うべき大道をあやまって、世界から信義を失うようなことがあってはならない。このような心がけを、全国民があたかも一つの家族のように仲良く分かち合い、長く子孫に伝え、わが国の不滅であることを信じ、国家の再建と繁栄への任務は重く、そこへ到達する道の遠いことを心にきざみ、国民の持てる力のすべてをそのためにそそぎ込もう。そうした心構えをいよいよ正しく、専一にし、志を強固にして誓って世界にたぐいないわが国の美点を発揮して、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。国民よ、わたくしの意のあるところを十分くみ取って身につけてほしい。

TOP


大東亜戦争終結ノ詔書 帝国政府による英訳  The Imperial Edict of the End of the War , Imperial Rescript

以下が、国内向けの日本語と同時に国際放送で海外に向けて放送された終戦の詔書の公式な英訳である。(5) 
読んだのは、戦後、「カムカム英語」で有名になる平川唯一だったという(3)。

Imperial Rescript, August 14, 1945

To Our Good and loyal subjects:

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.

To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.

Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the inmate glory of the Imperial State and keep place which the progress of the world.

The 14th day of the 8th month of the 20th year of Showa

TOP


内閣告諭

本日畏くも大詔を拜す。
帝國は大東亞戰爭に従うこと実に4年に近く、而も遂に聖慮を以て非常の措置により其の局を結ぶの他途なきに至る、臣子として恐懼言うべき所を知らざるなり。
顧みるに開戰以降遠く骨を異域に曝せるの將兵其の数を知らず、本土の被害、無辜の犧牲また茲に極まる。思うて此に至れば痛憤限りなし。
然るに、戰爭の目的を実現するに由なく、戰勢また必ずしも利あらず。遂に科學史上未曾有の破壞力を有する新爆彈の用ひらるるに至りて戰爭の仕法を一変せしめ、次いでソ聯邦はさる九日帝國に宣戰を布告し、帝國は正に未曾有の難に逢着したり。
聖徳の宏大無辺なる世界の和平と臣民の康寧とを願わせ給ひ、茲に畏くも大詔を渙発せらる。
聖断既に下る。赤子の率由すべき方途は自ら明かなり。
固より帝國の前途は、此に依り一層の困難を加へ、更に國民の忍苦を求むるに至るべし。
然れども、帝國はこの忍苦の結実によりて、國家の運命を將來に開拓せざるべからず。本大臣は、茲に万斛の涙を呑み、敢てこの難きを同胞に求めんと欲す。

今や國民の均しく向うべき所は國体の護持にあり。而して、苟くも既往に拘泥して同胞相猜し、内爭以て他の乘ずる所となり、或は情に激して軽擧妄動し、信義を世界に失うが如きことあるべからず。又、特に戰死者、戰災者の遺族、及び傷痍軍人の援護に就ては國民悉く力を效すべし。

政府は國民と共に承詔必謹、刻苦奮勵、常に大御心に帰一し奉り、必ず國威を恢宏し、父祖の遺託に應えんことを期す。
尚此の際特に一言すべきは、この難局に処すべき官吏の任務なり。畏くも 至尊は、「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル」、と宣はせ給う。
官吏は宜しく陛下の有司として、此の御仁慈の聖旨を奉行し、以て堅確なる復興精神喚起の先達とならんことを期すべし。

 昭和廿年八月十四日

 内閣総理大臣 男爵鈴木貫太郎

(注)ラジオ放送用にリライトされた原稿(6)より。告諭原文とは送り仮名、句読点、改行等が異なる。
漢字は読みやすさ、画面表示の都合で一部常用漢字に修正してある。

TOP


参考文献

 1) 徳川義寛終戦日記 朝日新聞社           1999年 Amazom.co.jpで購入する
 2) (増補)八月十五日の神話 佐藤卓巳 ちくま学芸文庫  2014年 Amazom.co.jpで購入する
 3) 放送夜話 日本放送協会編 日本放送出版協会 1968年 Amazom.co.jpで購入する
 4) 官報 号外 1945年8月14日
 5) Nippon Times 1945年8月15日
 6) 玉音放送 竹山昭子 晩聲社 1989年 Amazom.co.jpで購入する
 7) 真空管の伝説 木村哲人 筑摩書房 2001年 Amazom.co.jpで購入する
 8) 「昭和史の天皇」4 玉音放送まで  読売新聞社編 2012年 中公文庫 Amazom.co.jpで購入する
 9) 玉音盤の保存処理 松井 茂 放送博物館だより No.21 1976 NHK放送博物館
 10)日本のいちばん長い日 [DVD] (Amazon.co.jp で購入する)
 11)戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)  2012年  (Amazon.co.jp で購入する)

TOP HOME























出会いと離別