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日本のラジオの変遷と放送史の概要(戦後編)

(1945-69)


はじめに -この章を読まれるにあたって-

 ここでは戦後のラジオの形態、形式の変化を大まかに紹介するとともに、関連する放送の歴史、社会的な事件などについて簡単にまとめた。代表例として取り上げたラジオの年代は、できるだけ初期のもの、または代表的なものを取り上げた。ただし、製品のデザインや形式の切り替わりは一斉に起きたものではないことに注意が必要である。特に1950年代以前は、地域間の経済格差やインフラの整備状況に大きな違いがあったことを忘れてはならない。このため、地域に即した製品を供給するメーカーがあるなど、さまざまな製品が併売されていたのが現実である。
 また、取り上げるトピックは東京を中心としたものにならざるを得ない。しかし、放送の受信環境や民放の開始時期は各地で異なるため、ラジオの普及状況は地域によって異なることをお断りしておく次第である。
 詳細は、リンク先の各ファイルを参照されたい。また、リンク先に記載してあるため、参考文献は省略した。特に記載がない限り、紹介したセットや部品は日本製である。

戦前・戦中篇から読む

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1946-50 焼け跡からの戦後復興 -国民型受信機と全波受信機の時代-

 敗戦後、日本は連合国総司令部(GHQ)により間接統治されることとなった。戦災によってラジオの多くが失われ、部品の不足から故障して修理できないセットも多かった。進駐軍(主にアメリカ)による民主化政策により、重要な教育手段であるラジオについては増産が求められた。ラジオおよび主要部品である真空管は不足していたため、価格統制と配給制が継続された。ラジオの需要は膨大だったため、戦前からあるラジオメーカだけでなく、軍需産業から平和産業に転向した大企業や、新興の中小企業が多数参入した。

 普及型ラジオの新しい規格として国民型受信機規格が定められた。これは戦時中から検討されてきたものが戦後すぐ具体化したもので、進駐軍の占領政策に先駆けて作られた。すべて4球の高周波1段付再生式受信機で、真空管が旧来のヒータ電圧2.5Vから6.3Vとトランスレスになったのが大きな違いである。
国民型受信機は1号から6号まで11種類(旧式な5,6号はすぐ削除された)あった。

 進駐軍の占領政策により、ずっと禁止されていた短波放送の受信が許可された。また、ラジオの増産に当たって再生妨害を起こす並四受信機の生産が禁止され、スーパーヘテロダインが推奨された。1946年以降、各メーカからスーパー方式の全波受信機が発売された。

   
テレビアン国民1号受信機(左)と、210型2バンド5球スーパー(右) いずれも1947年

 同じメーカの国民型受信機と全波受信機の例を示す。国民型受信機は戦時中の局型受信機譲りのシンプルなキャビネットが特徴で、各社良く似たデザインである。これでも悪性インフレに苦しむ庶民にはとても手が出ないものだったが、全波受信機ははるかに高価だった。全波受信機の回路やデザインは多彩で、物資がない中で各社の創意工夫に満ちている。メーカとしては技術のイメージリーダ的な役割を果たし、一部の富裕層には売れたのだろう。

 1948年に入ると、実売につながらない全波受信機から、コストダウンした中波のみの5球スーパーに各社の比重が移ってきた。

  
フタバFKS-2スーパー級国民型受信機(左)、ナショナル国民スーパー5S-12型(右) いずれも1948年

 1万円を大きく下回る普及価格で登場した5球スーパー受信機の例。特に、フタバのセットは、再生式国民型受信機の上位規格として検討され、結局実現しなかったスーパー級国民型受信機規格にのっとったもの。

 価格統制、配給が継続する状況で、戦前から続く放送協会認定制度が、戦後すぐに再開し、国民型受信機がその対象となった。しかし、日本製ラジオの品質があまりに悪いことから1948年後半からは逓信省がメーカ製のラジオすべてに対して型式試験を実施することになった。

 敗戦の段階で、日本のラジオは欧米に比べて10年ほど遅れていた。進駐軍将兵が持ち込んだアメリカ製ラジオは日本人エンジニアの良い目標となった。進駐軍が開設したCIE図書館や、アメリカ製ラジオの修理などを通して日本のエンジニアは最新の技術を吸収したのである。

この時代の普及型ラジオについてはこちら
この時代のスーパー受信機についてはこちら

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1950-54 民放開局とラジオの全盛期 -5球スーパーの時代-

 1950年6月1日、占領からの独立とほぼ同時に電波三法が成立し、現在まで続く体制となった。6月1日は今日「電波の日」とされている。これによりNHKによる放送の独占は失われ、放送協会認定や逓信省型式試験などの制度は廃止された。

 1949年に戦後の悪性インフレを抑えるためにとられた「ドッジ・ライン」と呼ばれる金融引き締めにより、多くのラジオメーカが倒産した。また、民放の開局が決まると、分離が劣る再生式受信機は売れなくなり、技術力が劣るメーカは脱落していった。実際にはラジオの多数を占めていた再生式受信機を考慮してゆったりした周波数割り当てが行われたため、障害はそれほど起きなかった。1951年4月21日、日本初の民放16局に予備免許が交付された。多彩な放送の開始はラジオの需要を喚起し、メーカ各社は多くの中波5球スーパー受信機を発売した。1952年には再生式受信機の生産はなくなり、スーパーだけで戦前の水準を上回る生産をあげたのである。

   
1953年のナショナルラジオの一部
左から、HS-1000国民スーパー(9,850円)、標準5球スーパーUS-200(14,800円)、3バンドオールウェーブAS-450型(27,600円)

 1953年のナショナルの製品から代表的なものを示す。安価なモデル(左)、標準型5球スーパー(中)、高価なオールウェーブ(右)まで、多彩な製品が揃っている。この他に小型ラジオやポータブルがあるが特殊な製品であった。この頃はプラスチック加工の技術が一般的になり、デザインに取り入れられていった時代である。この頃のカタログには、(左)のような保守的なデザインと(中)のような近代的なデザインが同時にラインナップされ、地域の要求に応じて使い分けられていた。このような多彩なラインナップを誇るのはナショナル、シャープ、ゼネラルなどの大手メーカのみで、他の中小メーカはもっと少ない品種しか用意できていない。

 この時代の5球スーパーはST管を使用した中型の木製キャビネットのセットが主流である。小型セットやポータブルラジオも現れてはいたが少数派だった。1953年にテレビ放送が始まるが受像機が高価ですぐには普及せず、1950年代前半はラジオの全盛期といえる。

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1954-57 真空管ポータブルの離陸 -ラジオ輸出黎明期の看板商品-

 1950年頃から、電池用ミニチュア管(以下mT管)や、小型部品、積層電池などのポータブルラジオ用の部品の量産が進み、品質も改善されてきた。ポータブルの生産は戦後創業した中小の専業メーカーが中心であった。主なものは白砂電機(シルバー)、中島ラジオ、スタンダード無線工業などである。1955年以降は大手メーカが一斉に参入し、生産量が激増した。

 日本国内では電池が高価で寿命が短いため一般には普及せず、一部の富裕層やラジオファンにしか使われなかったが、経済力の高かったアメリカでは広く普及していた。日本のラジオ関連の輸出は1954年までは大半が東南アジアや南米向けで、その額も小さかったが、1955年以降はポータブルラジオの対米輸出が活発になり、ポータブルの生産が急増し、月生産台数の半数がポータブルということもあったという。

  
シルバーDX-300型(1956年)(左)と、Continental M-500型(1954年)(右)

 専業メーカのポータブルラジオの例。シルバーは自社ブランド、Continental は、アメリカの商社ブランドでのOEMでメーカは勝山ラジオテレビ製作(株)である。デザインはアメリカ製品の模倣であることが多い。

 1955年に日本発のトランジスタラジオ、TR-55型が東京通信工業(現ソニー)から発売された。この機種は高価で性能も十分ではなかったが、トランジスタの性能の改善は著しく、電池のコストが低いことから後継機種から生産が急増し、大手各社も1957年までに参入した。真空管ポータブルは売れなくなり、ポータブル専業メーカの多くが1957年に倒産した。日本のエレクトロニクス製品輸出の先頭を切った真空管式ポータブルだが、その寿命は短かった。

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1955-57 ST管からmT管へ -5球スーパーの普及-

 電池用真空管から始まったmT管の量産は、1954年頃には本格化し、多くの品種が発売されるようになってきた。1956年には真空管の全生産量の70%がmT管となり、メーカ製の大半のセットがmT管を使うようになった。このころにはスーパーの普及が進み、全世帯の半数以上がスーパー受信機を備えるようになっていた。mT管に変わった当初は、従来と変わらない大型の木箱の製品が多かったが、真空管の小ささを生かしたトランスレス式の小型セットも現れ、ラジオの低価格化に貢献した。

   
1955年のナショナルラジオの一部、左からDL-340型(7,900円)、BL-280型(14,300円)、BL-600型(23,800円)

 1955年のナショナルの製品から代表的なものを示す。安価な小型ラジオ(左)、木箱の標準サイズの5球スーパー(中)、ハイファイ型の大型高級ラジオ(右)まで、多彩な製品が揃っている。ハイファイ型ラジオは、民放開局後に登場した新商品で、中波専用でありながら高感度でスピーカやアンプ部にコストをかけた音質重視の商品で、地元に民放のない地方の富裕層や、手軽なオーディオ製品として音楽ファンに人気があった。カタログではこの他にポータブルラジオとオールウェーブがある。オールウェーブは税金が高いことから価格が高く、外国放送への関心も低いことから売れず、この頃はメーカーも力が入っていない。品種も少なく、旧製品の改良型が多い。

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1958-64 トランジスタラジオの躍進、プラスチックラジオの時代

 ソニーが先行したトランジスタラジオについては、1957年には各社のトランジスタの量産体制が整い、大手ラジオメーカの多くが1957年には製品を発表した。輸出も順調に立ち上がり、対米輸出を中心に日本の代表的輸出商品となった。1959年には全生産量の90%が輸出されるようになり、生産台数で真空管式ラジオを圧倒的に上回るようになる。

  
ソニーTR-610型(左)と、SPICA ST-600型(右) ともに6石スーパー、1958年

 1950年代を代表するトランジスターラジオの例。ソニーTR-610型は、日本の代表的輸出品となったポケットラジオの先駆者としてベストセラーとなった製品。当時は模倣が多いと非難されていた日本製品だが、この製品は欧米からも模倣品が出たほどの人気となり、日本のデザインの水準の「向上を示すものとなった。SPICAは三立電機のブランドで、初期の輸出専用トランジスタラジオである。小変更を繰り返しながら1964年まで継続し、100万台を輸出したという。

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 1960年代前半は、一般家庭の大半は真空管式ラジオを使っていて、多くは5球スーパーだった。輸出が急増するトランジスタラジオに対して真空管ラジオの生産台数は横ばいから減少傾向を示していた。大半はmT管を使ったトランスレス方式で、プラスチックキャビネットに収まった小型のものが主流だった。

 1954年の日本短波放送の開局に伴い、1955年にオールウェーブの物品税が中波のみのラジオと同じ税率に引き下げられた。1960年以降のラジオは、大半が3.8-12Mcの短波帯を持つオールウェーブとなっている。1958年に東京で実験局として始まったFM放送は、1964年にはNHKが全国26局で実用化試験放送を開始し、1963年頃からはFM付のモデルが増えてくる。

 1959年にテレビ視聴者が100万を突破してからはラジオの聴取者数は減り続けた。家庭の娯楽の中心はテレビに取って代わり、ラジオは自動車の運転中や通勤時、深夜放送などゴールデンタイムを外れた時間が中心となるパーソナルなメディアに変わっていった。ラジオの低価格化と持ち運べるトランジスタラジオの普及はこれに拍車をかけるものだった。

   
1960年のナショナルラジオの一部
T-19型(6石,7,800円)、T-26型(8石2バンド,12,300円)、DX-485型(5球2バンド,7,000円)

 1960年のナショナルラジオの代表的なモデルを示す。6石のポケット型から8石、9石のオールウェーブまで、トランジスタラジオのラインナップが充実している。トランジスタラジオはまだ価格が高く、真空管ラジオのほうが少し安かった。ステレオの流行から2スピーカのモデルがはやったのもこの頃である。

この頃の5球スーパーについてくわしくはこちら 

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1965-69 トランジスタラジオ全盛期、真空管ラジオの終わり

 1960年にトランジスタラジオの対米輸出が1,000万台を突破して以来、トランジスタラジオは日本の重要な輸出品であったが、日本の人件費は高騰し、日本の部品メーカが進出した香港、台湾の製品が力をつけてきて強力なライバルとなっていた。アメリカのラジオメーカはその大半を日本や香港のOEM製品に頼るようになり、1970年代初めにはアメリカ製ラジオの生産はほとんどなくなった。日本では団塊の世代の若者に向けた高機能トランジスタラジオが流行していた。

真空管ラジオは1967年頃まで各社のカタログに1-2機種残っていたが、60年代末にはなくなり、すべてIC/トランジスタ式となった。

  
1967年のナショナルラジオの一部
ナショナル・パナソニック R-225型(8石2バンド,6,900円)(左)、RE-750D型(5球,9,800円)(中)、RE-860型(6球,16,800円)(右) 

 松下はこの頃から「パナソニック」ブランドを国内で広く使い始めた。左は「パナソニック8」の商品名でベストセラーになったシリーズの初期のもの。中と右は1964年に発売されて最後まで残った真空管ラジオである。この2機種はともにFM付の高級な機種である。

最後の真空管ラジオについてはこちら

    
1967年の代表的トランジスタラジオ
(左)ソニーTFM-110F「ソリッドステート11」(12石FM付3バンド、13,800円)
(中)ナショナル・パナソニックRF-690「ワールド・ボーイ」(11石FM付3バンド、11,000円)
(右)東芝8M-390S「GT-SW」(8石2バンド、7,300円)

 60年代後半を代表するトランジスタラジオ。ソリッドステート11は65年から69年まで続くベストセラーとなった。黒とシルバーを基調としたシンプルなデザインがこの時代の特徴である。ソニーの影響で他社にも縦型のダイヤルが流行した。ナショナルのワールドボーイは若者向けのラジオとして多くの機種が発売され、人気商品となった。

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