国策型受信機
−戦時中の民間受信機事情 (1939-43)−
"KOKUSAKUGATA"Radio set -Japanese Radio Set in World War U-


目次

はじめに 
回路、部品 (加筆訂正)
デザイン 
国策型受信機誕生の経緯
ラジオ統制の強化
国策型受信機の末路
国策型受信機の戦後
参考文献

国策型受信機の具体例は戦時中の普及型受信機へ 、戦時下の公定価格についてはこちらを参照のこと。


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はじめに

 日中戦争から太平洋戦争に至る戦時下のラジオというと放送局型受信機が有名だが、実際には局型よりはるかに多かった一般のラジオの事を忘れる事はできない。

 日本放送協会周知課相談係は、「無線と実験」誌の1939(昭和14)年9/10月号に掲載された「市場に現れている国策型受信機10種の試験報告」なる記事で資材節約という当時の国策に沿った普及型受信機を「国策型受信機」と称した。
国策型受信機は日中戦争(当時は日華時変)が激化し、電蓄等の贅沢品の製造禁止や資材統制が厳しくなるなかで現れた普及型受信機の総称であって放送局型受信機のような公的な規格などで決められた名称ではない。
型名を「国策○号」とした物が多かったので国策型と呼ばれたと思われる。
この名称は、松下無線が1939年初頭に発表した「国策1号型」KS-1型が最初に使ったものと思われる。

 他の資料ではこの用語はあまり見られないので一般化はしなかったようだが、当館では日中戦争勃発から太平洋戦争の終結までの戦時下に作られた普及型受信機を「国策型受信機」と呼ぶことにする。

それでは、まず国策型受信機がどんなラジオなのか見てみよう。
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  回路、部品

 回路構成は5極管によるグリッド検波回路と3極管2段の低周波増幅回路を持つ、いわゆる「並4」で、球のラインナップは57-26B-12A-12Fという構成が一般的である。
1940年以降は、ラジオの規格統制により57-56-12A-12Fが規格品とされたため、26Bは次第に使われなくなった。
日本のラジオは3極管増幅の場合、大正時代と変わらない低周波トランス(1:3、質が悪い物が多く断線しやすかった)を使用した旧態依然たる回路が使われていたが、資材節約のため抵抗結合とされ、チョークコイルも抵抗で置き換えられた。
検波出力の高周波チョークも1939年頃の初期のセットではまだ使われているが、これも省略、または抵抗で置き換えられている。
放送協会(以下協会と略す)は放送局型11号等で57-47B-12Fの3球(いわゆる3ペン)を発表しているが、国策型受信機が3極管2段増幅になったのは、3ペンでは感度が十分でないのと、47Bのコストが26B-12Aより高かったからだと思われる。
現実に3球式の局型11号、122号は売れなかった。

 1939年10月29日に決定されたラジオ用品委員会申し合わせ事項第1号第1項により、マグネチックスピーカつきの受信機には、ピックアップ端子を設けないこととなったため、1939年末以降の並四受信機には、ピックアップ端子がないものが大半である。また、同第3項により、トランスに100V以外のタップを設けることも取り止められた。(1)

 トランスレス用真空管は昭和15年に発売され、ほぼ同時に東芝から51型受信機(12YV1-12YR1-12ZP1-12ZK1)が発売されたが、局型122、123号以外に使用された例は少なく、普及品としては大東亜1号受信機(V1-R1-P1-12F,トランス式)が確認されているだけである。
 スピーカは8"程度のマグネチックで初期には金属フレームが使われているが、1940年頃からは代用品の硬化紙製の物になる。
電源はトランス式だが、2.5Vと5V捲線の共用等により小型化されている。
シャーシも小型な物が多く、資材の節約が図られている。
 また、並4では電波の弱い地域では実用にならなかった。
この様な地域では局型123号を代表とする高1以上のセットが使われた。


ナショナル国策1号型の回路図(セット底板に貼付されたもの)

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  デザイン

 キャビネットは横型で、ダイヤルもほとんどが直結の簡単なものである。
デザインは1939年に発表された初期のものは、簡素化されているもののまだ装飾的な豊かさが感じられるが、次第に貧相なデザインに変わっていった。

    

(所蔵No.11777)
 
 ナショナル国策1号型KS-1型、(松下無線、1939年) \26.00

 57-26B-12A-12Fの、いわゆる並四受信機である。国策型受信機の最初期のもの。
この天部前側が丸く、ダイヤル部に黒い帯を持つデザインは放送局型123号の原型となったと考えられる。
しかし、このセットはこの後、大量に現れたセットよりも一回り小さく作られている。
小型化と大量生産によりこの機種は当時の平均的な並四の価格の30円台を大幅に下回る26円の定価で発売予告された。
しかし、同業他社からダンピングを疑われ、問題視されたため、本来1938年末に発売されるはずだったのが翌年初頭に延期された。
小型化することで資材節約を図ろうとしたものだが、その後標準化されたスピーカやキャビネットは、これより大型のものだった。
価格統制の中で、小型のキャビネットを作ることは認められなくなったため、この様な小型受信機が作られることはなかった。

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  国策型受信機誕生の経緯

 国策型受信機が世に出るまでを語るには昭和11年(1936)までさかのぼらなければならない。
この頃、戦時下の不況の影響もあり、聴取廃止の増加が協会を悩ませていた。
また、受信機界はスーパーのような高級受信機が流行するとともにシャーシ3台10円等という粗悪な安物がはびこり、協会が普及を図っていた認定受信機の売れ行きははかばかしくなかった。
認定制度が十分機能せず、聴取廃止が増えるのに業を煮やした協会は後の放送局型受信機制度につながる「標準受信機制度」案を考えた。
これは標準受信機(試案では57プレート検波-47B-12B)を小売り価格20円で月賦販売し、製品はメーカーから協会が買い取る形にして、月賦の取立を協会が行うというものであった。
 これに対してまず卸業者が反対を表明しました。
この制度では協会直売のようになり、卸の存在が不要になりかねないのだから反対して当然である。
 また、メーカー側では協会が大手5社(松下、早川、坂本、山中、七欧)だけに相談したために他のメーカーの反発を招き、小売り価格が低すぎて利益がでないという問題もあり、先の5社を除くメーカー、卸、小売り業者による「標準機対策協議会」が作られ、協会との対立が激化した。
 ここで注目したいのは「標準受信機」という名称である。

 業界の協力が得られぬまま標準受信機は実現しなかった。
この間ラジオ工業組合による規格統一受信機を作る案もあったようだが実現せず、1938(昭和13)年1月の放送局型受信機規格の発表となった。
この時発表された1号、3号は資材を贅沢に使っている割には無妨害再生に設計の重点を置いたために感度が低く、商品価値が低いと判断され、価格の面でも採算性に疑問があり、また局型受信機制度そのものにも、測定設備の義務づけがある点などが嫌われ(裏を返すとロクな測定設備もなしにラジオを作っていた連中がいかに多かったかという事なのだが)、昭和13年(1938)2月12日の東京ラジオ工業組合決議により反対が表明された。
反発を受けた原因には受信機の規格だけ出しておいて当時すでに困難になっていた資材調達についての配慮がなかった協会の姿勢にもあったという。

 この頃から国策、勝利、愛国、共栄、征服、南進などの時局に即した名前の抵抗結合式の資材節約型受信機が現れてくる。
結局国策型受信機は放送協会が考えた標準受信機たる局型受信機制度に対するラジオ業界の回答であったとするのが適当なようである。
 局型受信機は逓信省を介しての協会と業界の折衝による条件の緩和により制度成立から1年後の昭和14年2月、日本精器(クラウン)から1号と3号が発売されたが普及する事はなく、局型受信機の量産は14年2月28日規格制定された局型11号から始まった。
冒頭に紹介した無線と実験の記事では局型11号も国策型受信機の1種として紹介されており、協会がラジオ業界に1歩譲った格好になっている。

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ラジオ統制の強化

 戦争の激化により民需用ラジオ向けの資材の供給事情が悪化し、統制が強化された。
本格的な統制が行われたのは昭和15年以降だが、その前(昭和13年)から業界団体であるラジオ工業組合によるラジオ用品規格統一委員会が部品の統一規格を検討し、統一委員会は14年9月、資材に関する連絡調整も行うラジオ用品委員会と改称された。
これによりラジオ用部品は局型用の部品を基本とした物に統一された。
 昭和15年(1940)12月6日の商工省告示によりラジオの種類が11種に規格化され、公定価格が定められた。
下表は昭和18年(1943)6月4日の改正されたものである。

種別 使用真空管 級別 小売価格 備考
3球マグネチック 57-12A-12F 1級品
2級品
33.70
30.56
4球マグネチック 57-56-12A-12F 1級品
2級品
51.80
46.40
4球ダイナミック 58-57-47B-12F 1級品
2級品
99.40
89.45
高1
4球電池式マグネチック 32-30-30-33 1級品
2級品
48.35
43.65
高1
5球マグネチック 58-57-56-12A-12F 1級品
2級品
58.25
52.55
高1
5球ダイナミック 58-58-57-2A5-80 1級品
2級品
157.70
139.25
高2
5球スーパーヘテロダイン
小型ダイナミック
58-58-57-2A5-80 1級品
2級品
96.20
86.70
5球オートトランス・ダイナミック 12YV1-12YV1-12YR1-
12ZP1-24ZK2
1級品
2級品
103.50
86.70
5球電池式スーパー
マグネチック(電池ナシ)
167-1A6-167-167-169 1級品
2級品
99.55
89.55
非常用受信機
6球交直両用マグネチック
(電池ナシ)
32-30-30-33-56-12F 1級品
2級品
75.75
68.35
国防受信機
6球スーパー・ダイナミック 58-2A7-58-2A6-2A5-80 1級品 225.10
放送局型11号 57-47B-12F 1級品 53.30
放送局型122号 12YR1-12ZP1-24ZK2 1級品 48.30
放送局型123号 V1-R1-P1-K2 1級品 77.0

 この中で1級品とは次のメーカーの製品の事である。

ブランド 製造会社名 ブランド 製造会社 ブランド 製造会社
ビクター 日本音響(株) ニッチク/コロンビア 日蓄工業(株) クラウン 日本精器(株)
エルマン 大洋無線電機(株) アリア ミタカ電機(株) ナナオラ 七欧無線電気
テレビアン 山中電機 ウェーヴ 石川無線電機 メロデー 青電社
オーダ 白山無線電機 キャラバン 原口無線電機 ナショナル 松下無線
シャープ 早川電機工業 ヘルメス 大阪無線 コンサートン 利根無線
フタバ 双葉電機 精華 八欧無線電機製作所 ローヤル 原口無線工業
ビオン 瀧澤無線電機工業

(注)1943年、白山無線電機は瀧澤無線電機工業を合併し、帝国電波(株)(現クラリオン)となる。

公定価格の規格品にはのようなラベルが貼られた(クラウン受信機、日本ラヂオ工業組合連合会の例)。

 これ以外のメーカーの製品が2級品になる。
局型に2級品の項目がないのは局型受信機の製造許可が1級レベルの規模と設備を持ったメーカーに与えられたためである。
ただし、酒の等級と同じで必ずしも2級の質が悪いという事ではなく、三田無線のような通信機、高級品専門の小規模なメーカーは2級ということになってしまう。
 この公定価格は、これより高いものを使っても公定価格を越える価格設定は許されなかった。
従って規格品より贅沢なラジオは作っても無駄という事になる。
また、この表にある真空管より安いものを使ったときは公定価格から控除された。
このため、この一覧にない低コストの旧型真空管(26B,27Aなど)を使ったラジオは「規格外受信機」などと称して規格品の価格から真空管の差額を差し引いた公定価格で販売されていた。
真空管の品種削減という方針に反するためか、このような規格外受信機の価格について「自粛価格」と呼んでいる販売業者があった。

 昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争がはじまり、昭和17年(1942)1月13日電気通信機器の生産統制を図る電気機械統制会が創設され、同年9月18日ラジオメーカーによってラジオ受信機統制組合がつくられ、統制会の下部組織となり、従来のラジオ工業組合は解散した。
そして同年12月19日ラジオ受信機配給会社が設立され、翌年(1943)には企業整備令により小売店が整理されて統制組合が設立され、ラジオの出荷検査を統制会が行うようになり、統制組織が完成した。

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国策型受信機の末路

 太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年にラジオの生産は戦前のピークを迎えるが、その後戦争の激化にともなって減少し続けた。
統制、配給体制が整った昭和18(1943)年には民需用資材は極端に減少し、18、19年に配給された受信機の1/3は外地向けで、その他の公用向けを除くと民間に配給された量はきわめて少なかったようである。
特に昭和19年後半からは民需用資材の割当はなくなり、民需用ラジオはメーカーの手持ち(もしくは闇)資材で生産されただけで、メーカーはほとんど軍需生産に当たった。
そして昭和20(1945)年に入り、ラジオの生産はほぼ壊滅し、8月15日の終戦を迎えた。
20年に配給出荷された受信機は官庁向け受信機(有放3号非常用電池式スーパー等)だけだったという。

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国策型受信機の戦後

 国策型受信機として最も多かった57-56-12A-12Fの並4は戦後国民型5号となったが、規格が制定されて間もなく、GHQの指示により再生妨害を与える受信機の生産が禁止され、国民型5号は昭和22(1947)年の改正国民型受信機規格(CES-12)から削除された。
認定を受けた国民型5号は4種類にすぎない。
戦後は6.3V管を使う高一付の国民型2号受信機が主流となった。
これにより長すぎた2.5V管の並4時代が終わりを告げたのである。

 ただし、新しい高価な受信機はすぐには普及せず、民放が開局し、5球スーパーが主流となっていた昭和30年代になっても古い並四受信機はたくさん使われていたため、26B、12Aなどの旧式の真空管が補修用として生産、販売されていた。
 また、6.3V化されたST管を使った6C6-6ZP1-12Fの、いわゆる並三受信機は、部品が大きく作りやすいことから技術家庭科の教材用として昭和40年代後半頃までキットが供給されていた。

参考

<物価の目安> 1941年(昭和16年)頃
小学校教員の初任給55円、鉛筆1本10銭、電球(60W)1個40銭 (統制価格)、もりそば1杯16銭(この後1948年まで戦時統制休業)
対ドルレート 1ドル=4.5円前後

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初出:AWC会報 1994 No.3


参考文献

1)日本放送協会報号外 1940.3.25 日本放送協会

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