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放送局型受信機

1938-45

はじめに -認定受信機の不振と標準受信機構想-

戦前の日本製ラジオ受信機の中で、放送局型受信機は良く知られているものの一つである。しかし、トランスレスの123号が戦争中に供給されたために空襲警報や玉音放送の記憶とともに語られることが多く、戦時耐乏型受信機と思われていることが多い。

しかし、実のところ放送局型(以下局型と略す)受信機は、粗悪な受信機が横行し、高価な認定受信機が普及しない中で、放送協会がドイツの国民受信機に影響を受け、認定受信機に代わる安価な標準受信機を普及させようとしたものだった。この制度は、設計やデザインを各メーカの自由に任せて、放送協会が後で審査して認定を与える認定受信機に対して、質の良い安価な受信機を普及させるために、仕様を統一して全メーカに大量生産させ、放送局が決まった価格で一括して販売しようとするものであった。

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注) 型名の表記について

放送局型受信機の正式な型番表記は、漢数字を使用して「放送局型第百二十三号受信機」などとするのが正式である。
本稿では用語の統一と、読みやすさを考慮して算用数字に統一した(算用数字を表示している製品もある)。
また、番号の前の「第」は、文章中の表記からは省略した。


目次

放送局型受信機の歴史とバリエーション

放送局型受信機構想の発表とラジオ業界の反発
 

局型1号、3号の試作 

放送局型1号、3号受信機の発表 

 局型1号受信機       日本精器(株) (1939年2月) 
 北支標準型第3号受信機 日本精器(株) (1940年5月) 
放送局型製造事業者  

より資材節約型の受信機へ -局型11号の誕生

 局型11号受信機(初期)         大洋無線電機(株) 1940年6月 
 局型11号受信機(初期)         大阪無線(株)    1940年9月
 局型11号受信機(中期)         白山無線電機(株) 1941年 
 局型11号受信機(中期)         大阪無線(株)    1942年5月
 局型11号受信機(後期)         白山無線電機(株) 1942年8月以降 
 華北標準型第11号受信機       日本精器(株)    1940年

国策型受信機の流行と局型の伸び悩み

トランスレス受信機(122号、123号)の開発

 局型122号受信機 七欧無線電気(株) 1941年11月
 局型122号受信機 石川無線電機(株) 1941年12月
 局型122号 (後期) 双葉電機(株)    1942.年11月 

 局型123号(初期)  七欧無線電気(株)  (認証番号12306) (1941年8月製)
 局型123号(初期)  原口無線電気(株)  (認証番号123011) (1942年3月製)
 局型123号(初期) (株)日本蓄音器商会 (認証番号123014) (1942年頃) 

放送局型受信機の宣伝 (NEW)

ラジオ統制の強化 

同一周波数放送による受信状況の悪化

123号の普及と改良 -「臨時許容」型の登場- 

 局型123号(初期の許容事項導入型)   タイガー電機(株)      (認証番号12305)  (1942年頃)
 局型123号(臨時許容)            松下無線(株)        (認証番号12309)  (1942年4月) 
 局型123号(初期の臨時許容導入型)   (有)八欧無線電機製作所 (認証番号123015) (1942年5月) 
 局型123号(臨時許容)            早川電機工業(株)     (認証番号12308)  (1942年5月)
 局型123号(臨時許容)            七欧無線電気(株)     (認証番号12306)  (1942年10月) 
 局型123号(臨時許容)            戸根無線(株)        (認証番号12305)  (1943年8月)

資材の逼迫と更なる簡略化へ  

 局型123号(角型)           大洋無線電機(株) (認証番号12303)  1943年8月 
 局型123号(角型)            松下無線(株)    (認証番号12309)  1944年6月 
 局型123号(角型)            白山無線電機(株) (認証番号123012) 1944年5月
 局型123号(角型)            ミタカ電機(株)    (認証番号123013) 1944年頃 
 局型123号(角型)            原口無線電機製  (認証番号123011) 1944年 
 局型123号(角型)            大阪無線(株)    (認証番号12307)  1944年
 
局型123号の技術的問題点

局型受信機の生産台数  

局型受信機の戦後、国民型受信機へ (加筆訂正)

参考文献 Reference Books and Papers

資料編 Data


局型受信機回路図集         Circuit Diagrams

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放送局型受信機構想の発表とラジオ業界の反発

局型受信機の案は1936(昭和11)年から検討が始まった。放送局型受信機は自由に設計されたセットを放送協会が認定する認定受信機と異なり、放送協会でデザイン、回路から販売価格まで指定して同じ物を製造し、価格は3ペン受信機相当の機種で20円とされ(同等の認定品は当時30円前後)、月賦で直販しようというものだった。この案を見る限りドイツの国民受信機の制度と酷似していることがわかる。放送局型受信機制度は受信機業界との間に問題を起こした。

当初「標準受信機」と呼ばれたこの計画がラジオ業界に漏れると業界から激しい反対運動が起きた。まず月賦販売という点で販路を断たれかねない卸業者から反対の声が上がり、次いで放送協会が案を決めるに当たって松下、早川、坂本、山中、七欧の大手5社に相談したためこれ以外のメーカーの不信を買い、メーカ側からも反対の声が上がった。

「標準機」に対する反対運動は激しくなり、業界では「標準受信機対策全国協議会」が結成され、放送協会との話し合い、逓信省、商工省への陳情などの動きがあったが1936年中には具体的な結論は出なかった。

 当初放送協会が「標準機」として考えていたのはドイツ国民受信機と同程度の性能の57プレート検波、47B低周波増幅の3球受信機だった。当時の3球受信機は大半が感度を稼ぐためグリッド検波だったが、音質を改善し、再生妨害を防ぐために感度を犠牲にしたプレート検波仕様となっていた。
翌1937年(昭和12年)には東京中央放送局で150kW大電力放送が実現の運びになっており、感度不足は大電力放送で対処すれば良いという考えだった。放送開始当時の「全国鉱石化」と同じ発想である。

 しかし、業界としては当時グリッド検波の3球式でも都会の電界強度の高い地域でしか売れないという実状から「標準機」の商品性に疑問を持っていた。1937年に入り、放送協会側は23円という価格を先に相談した5社に提示したが、メーカー側は「できない」との回答だった。放送協会としては、十分な技術力のある有力メーカということで5社を選んで相談したつもりだったようだが、このことは他のメーカの反発を煽る結果となった。

当時は安価(かつ粗悪)な受信機が多く売られていたため、局型が指定価格通り販売されたとしても競争力があるとは言えない。部品点数や構造も従来の受信機と大きく変わらず、コストを下げることは困難と思われ、業界の態度は硬化し、2月11日に「標準受信機対策全国業者大会」が東京で開催されるに至った。

この中で1938(昭和13)年1月18日、放送局型受信機規定、試験綱領、受信機仕様書(1号、3号)が公開され、制度が正式にスタートすることになった。1,3号の最初の製作承認は1938年1月25日に、日本精器(株)に与えられた。

 1938年2月、東京ラジオ工業組合は局型に対する反対決議を出し、組合員の局型製造の“抜け駆け”を禁じた。これは標準受信機対策全国協議会からも賛同を得た。反対決議ということになったのも、主に局型が量産、測定設備を持つメーカーのみに許可されるという点にあった。このことは、ろくな測定器も持たず、家内工業で生産していたメーカーがいかに多かったかということを示している。

また、この頃すでに資材の入手難が問題になっていたが、仕様書が発表された局型1、3号は資材を節約した設計になっていない上、放送協会はメーカーを指定して検査をするだけで資材を割り当ててくれるわけではないという点も業界の反発を受けた原因であった。

この激しい業界と放送協会の対立に対し、逓信省無線課長が仲裁に乗り出し、同年6月23日に、資材節約型受信機(11号受信機のこと)が追加されること等を条件として両者は和解したのである。和解に至った原因としては、民間用資材の逼迫を何とかしたいという業界の意向が働いていた。その後各メーカからの見本品が提出され、局型製作業者の申請が出されるようになった。(8)

局型と併せて、1938年7月、中国北部の占領地域(北支)では、ラジオの輸入を禁止し、北京中央広播電台が、日本放送協会から一括して供給を受けた受信機を直売することになり、局型受信機をベースとした標準型受信機を製作することになり、日本精機、早川金属工業、タイガー電機に発注された(他のメーカに発注されたかは不明)。結局北支標準型3号受信機のほうが局型3号より早く生産され、大陸向けに出荷された

同年10月にはラジオ用品統一促進委員会が設立され、大正時代から遅々として進まなかった規格統一がやっと始まることになった。ここで決定された規格はRS○号と称された。

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局型1号、3号の試作

1937年9月9日に放送協会から逓信省に対して放送局型受信機規定の認可申請がされている。すでにこの時点で後の放送局型1号、3号となる受信機の試作は進められていた。ドイツと異なり山間部の多い日本では3球受信機だけというわけに行かず、高周波付きの4球受信機が追加された。試作は技研から出される仕様書に基いて試作発注されたメーカーが製作する形で行われた。外観のデザインについては試作発注時にはサイズと大まかなレイアウトのみが指示されている。詳細なデザインはメーカー側で行われたと思われる。試作を担当したメーカーはあきらかではないが、後の状況から判断すると日本精機で行われたとするのが妥当である。

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放送局型1号、3号受信機の発表

1937年12月24日に逓信省の認可を得て1938年(昭和13年)1月18日、局型1号、3号の仕様書および放送局型受信機規定が発表された。1,3号の最初の製作承認は1938年1月25日に、日本精器(株)に与えられた。

幻の2号、4号受信機
最初の局型受信機は1号、3号と番号が飛んでいるが標準受信機の計画段階では2号および4号受信機も存在した。
2号、4号はそれぞれ1号、3号のダイナミックセットであったが、結局設計に移らなかった。
当初の企画は平和な時代に行われたため、資材節約よりも高品質が求められていたと考えられる。
(日本無線史第1巻p.76による)。

放送局型1号受信機は57-47B-12Fの3球受信機で音質の改善と再生妨害の防止のためにプレート検波を採用しているのが特徴である。3号受信機は58-57-47B-12Fの高周波1段増幅付受信機でこれもプレート検波を採用し、再生ツマミはシャーシ後側にあり、半固定式となっている。従って感度が低く、一般に普及していたグリッド検波の3球式が弱電界級(電界強度0.5mV/m以上)、高一4球式が微電界級(同0.1mV/m以上)なのに対して局型1号が中電界級(2mV/m以上)、3号が弱電界級と一つ感度階級が下がっている。使用上の注意には高さ8m、水平長12mの逆Lアンテナ相当を使用することとなっているがこれは一般家庭では現実的とはいえない。ただ、この条件で決まった感度階級が前述のとおりなのである。特に1号受信機は使用できる地域が極めて限られたものであっただろう。

放送協会指定の受信機だからといって安物が電灯線アンテナで十分聞けるのに大きなアンテナを立てなければいけないということであれば少しでも電波の弱い地域で販売するのは困難だったであろう。

原理的にアンテナからの電波放射のない高周波増幅付きの3号受信機にまで感度が低いプレート検波を採用したのは、音質を改善するという効果を考えても理解できない。よほど大電力化の展望があったのだろうか。音質改善と再生妨害の防止にとらわれすぎて受信機として最も重要な感度を忘れてしまっては商品として成り立たないのは当然である。

ドイツの国民型受信機も低感度であるが、この場合は、隣接する外国の放送を受信させないという目的があった。ドイツでは試作品を全国でテストしてローカルと全国放送が受信できることを確認した上で発売されたため成功したが、放送局型受信機について十分なテストが行われたという記録はない。机上で作られた仕様というのが正直なところではないだろうか。

受信機の価格は1号受信機23円、3号受信機36円(現金小売価格)と決定されたが、同じ真空管を使う認定受信機が3ペンで25円程度、4球高一が50-60円程度であることを考えると、特に3号受信機については非現実的なほど低価格である。同じ価格でも感度が一桁低ければかなり割高ということになる。局型の製作許可が、月産2千台以上の生産能力を条件としていたことからも、量産によるコストダウンを見込んでいたのだろうが商品として成り立つとは思えない計画である。なお、1939年には1号受信機が34円、3号受信機が46円に改められた。

国内向けの局型受信機が業界の反発でなかなか進まない中で、北支(中国北部占領地域)向けの受信機については、比較的スムーズに進み、1938年7月には早川金属工業とタイガー電機による北支標準型3号受信機の生産が開始されていた。(8)

業界の反発を乗り越えて日本精機(株)から最初の局型1号、3号が発売されたのは明けて1939年(昭和14年)2月であった。しかし、すでに日中戦争が始まっていて、資材供給に問題が出ていた。局型1号、3号は発売時点ですでに「時局」に合わなくなっていたのである。1号、3号受信機のキャビネット意匠は、意匠登録第78199号(1号受信機)、第78200号(3号受信機)として登録された。放送局型受信機の発売に合わせて放送協会では中電界級、弱電界級の受信機は放送局型受信機を推奨することとし、この階級のエリミネーター式受信機の認定申請を1939年4月1日以取り扱わないことになった(日本放送協会報第207号)。

さて、やっと発売された局型1、3号だったが、日本精機に追従するメーカーはなく、市場には出回らなかった。1、3号については3号が北支標準型3号A受信機として大陸に輸出されたほか、1944年に1号型が32台、3号型が30台、非常聴取対策用受信機として各地に割り当てられた記録がある。試作品を配布したのではないだろうか。日本無線史によれば、1号は試作のみ、3号は華北向けのみ市販され、国内には仙台放送局がHK型として改良型を少数販売したのみだったという。当館にある北支標準型3号A受信機の製造番号は”1174”、1号受信機は判読しがたいが2桁の数字である。
仕様書上は1940年5月24日に改正されているが、実際に製造されてはいないと思われる。

放送局型第1号受信機 1939年2月 日本精器(株)

    
  キャビネットは入手時、崩壊していた(右)ので、欠落部分を補って修復した。
  
  真空管は失われていたので手持ちのものを取り付けた。本来はキャビ上部に裏蓋を受ける桟が付く。

57-47B-12Fの3球受信機で音質の改善と再生妨害の防止のためにプレート検波を採用しているのが特徴である。このため感度階級は通常の3ペン受信機より低い中電界級となっている。局型受信機が発売された月の製造年月日が入っている。最も古い局型受信機である。この機種は、感度が低いことから商品性が無く、ほとんど生産されなかった。このセットは、戦後まで使用されたようだが、グリッド検波に改造されている。また、当初の設計ではチョークコイルが3個使われていたが、すべて抵抗器に置き換えられている。

本機のキャビネットは崩壊していたため、欠落していた天板をオリジナルと同じ材料で再現して修復した。裏蓋は失われている。

 (所蔵No.11523)

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 北支標準型第3号A受信機 (放送局型第3号受信機相当品) 日本精器(株) (1940年5月)
  

 

  
      
中国大陸の日本占領地域で使用された受信機で放送局型第3号受信機と基本的に同じもの。58-57-47B-12F の高一でプレート検波、半固定再生(シャーシ後部に調節ねじがある)となっている。このため、高一受信機でありながら感度階級が1段低い弱電界級となっている。電源電圧が220/110Vとなっている点が異なる。

  (所蔵No.11539,11788)

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放送局型製造事業者

放送局型受信機の製造には、逓信大臣の認可が必要であった。局型製造事業者として逓信大臣の認可を受けた製造者には指定された試験設備と試験要項により検査することが求められた。出荷時には放送協会の全数検査を行うこととなっていた。真空管、スピーカなど主要部品は従来の放送協会認定品を使用することが指定された。局型受信機の製造許可はあるレベルの規模と設備を持った1級品メーカーにのみ与えられた。ただし、酒の等級と同じで必ずしも2級の質が悪いという事ではなく、三田無線のような通信機、高級品専門の小規模なメーカーは2級ということになってしまう。局型1,3号受信機の開発にかかわった日本精機を皮切りに下記の主要メーカ19社に製造許可が与えられた。
許可会社には受信機の型番の後に0*の許可順の番号をつなげた認証番号が与えられた。

 局型認定製作者一覧と各受信機の認証番号(1943.9.1現在)
  (黒字の番号は実機で確認したもの、赤字は認証年月日の順序から推定したもの)

商標 製作者名 1号
番号
3号
番号
1,3号
承認年月日
11号
番号
11号
承認年月日
122号
番号
122号
承認年月日
123号
番号
123号
承認年月日
所在地
クラウン 日本精器(株) 101 301 1939.1.25 1101 1939.12.16 12201 1941. 1.10 12301 1941. 1.10 東京都品川区大井林町255
テレビアン 山中電機(株) 1107 1940. 3.26 12202 1941. 3. 1 12302 1941. 3. 1 東京都王子区東十条6-3-8
エルマン 大洋無線電機(株) 104 304 1939.12.16 1103 1940. 1.23 12203 1941. 3. 1 12303 1941. 3. 1 東京都大森区大森2-198
ウェーヴ 石川無線電機 11011 1940. 6. 7 12204 1941. 3. 1 12304 1941. 3. 1 東京都渋谷区代々木初台町671
コンサートン 戸根無線(株) 1108 1940. 3.26 12208 1941. 5.19 12305 1941. 3. 1 大阪市旭区放出町372
ナナオラ 七欧無線電気(株) 102 302 1939.12.16 1104 1940. 1.23 12207 1941. 5.19 12306 1941. 5.19 東京都目黒区中目黒1-655
ヘルメス 大阪無線(株) 1106 1940. 1.23 12205 1941. 3. 1 12307 1941 .5.19 大阪市東淀川区中津南通1-43
シャープ 早川電機工業(株) 1102 1939.12.16 12206 1941. 3. 1 12308 1941. 5.19 大阪市住吉区西田辺町25
ナショナル 松下無線(株) 11010 1940. 6. 7 12209 1941. 6. 2 12309 1941. 6. 2 大阪府北河内郡門真町
メロデー (株)青電社 11012 1940. 6. 7 122012 1941. 6. 2 123010 1941. 6. 2 東京都牛込区市ヶ谷谷町47
キャラバン 原口無線電機(株) 11013 1940. 2.19 122011 1941. 6. 2 123011 1941. 6. 2 東京都目黒区下目黒1-105
アリア ミタカ電機(株) 103 103 1939.12.16 1105 1940. 1.23 122010 1941. 6. 2 123013 1941. 6. 2 東京都杉並区方南町452
オーダ 白山無線電機(株) 11014 1941. 1.10 122013 1941. 6. 2 123012 1941. 6. 2 東京都小石川区白山前町21
コロンビア 日蓄工業(株) 11015 1941.11. 6 122015 1941.11. 6 123014 1941.11. 6 神奈川県川崎市港町125
精華 八欧無線電機製作所 11016 1942. 1.30 122016 1942. 1.30 123015 1942. 1.30 東京都向島区吾嬬町西3-30
ビクター 日本音響(株) 11017 1942. 5. 6 122017 1942. 5. 6 123016 1942. 5. 6 神奈川県横浜市神奈川区守屋町3-12
フタバ 双葉電機(株) 1109 1940. 3.26 122014 1941. 6. 2 123017 1942. 9.11 大阪市北区芝田町62
ローヤル 原口無線工業(株) 1943. 3.30 1943. 3.30 1943. 3.30 東京都品川区五反田5-118
ビオン 瀧澤無線電機工業(株) 1943. 3.30 1943. 3.30 1943. 3.30 東京都荒川区尾久町6-189
(注)許可年月日が型式によって異なるので機種ごとに別の番号が与えられた。(赤字は前後の関係から推定したもの)
 社名について:青電社は1941.10.22より株式会社、双葉電機は1941年2月24日まで二葉電機、早川金属工業は1942年6月1日より早川電機工業
          日蓄工業(株)は1942年9月21日まで(株)日本蓄音器商会

局型受信機は、放送協会により出荷検査が行われ、合格した製品に認証番号を記載した標章が貼られて出荷された。
認定章はキャビネット左側面または前面左下に表示された。

  
局型受信機標章、写真は123号受信機に付けられた実物、図は局型受信機規定より
(標章登録第305322号、1938.8.10、専用標章登録第319521号、1939.8.8)

        
  出荷前検査申請書の断片、高さ10cm程度      123号受信機の包装 (1944年の末期のもの)

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より資材節約型の受信機へ -局型11号の誕生

戦時色が強くなるにつれてラジオ受信機には鉄、銅、ニッケルなどの軍需物資の節約が求められた。ドイツでは新型の国民受信機としてDKE 1938型 Deutschen Kleinempfanger(ドイツ小型受信機)が発売されていた。4極3極複合管VCL11と整流管VY22本で構成されたトランスレス受信機で、シャーシは現在のプリント基板に近い材質のプラスチックの1枚板、スピーカは後に日本でも作られた紙製のフレームが使われ、ほとんど金属を使用せず、小形軽量(1.5kg)、かつ低価格(35ライヒスマルク)であった。

日本ではここまで資材を節約したものはできなかったが、1939年3月1日、時局に即した局型受信機として放送局型第11号受信機の仕様書が発表された。
トランスレス用真空管がこの時点で完成していなかったために回路は普通の57-47B-12Fの3球受信機だが、電源トランスを小形にするためB巻き線を1次側から取り出している。
タップで昇圧しているためB電圧は130Vになる。当然出力が低いため再生妨害には目をつぶってグリッド検波を採用している。グリッド検波の効果により感度が1号より改善され、弱電界級ぎりぎりの性能となった。資材面も1号型より大幅に節約された。最初に製作認可を受けたのは1、3号と同じ日本精機(株)であった。

こうして発表された11号受信機であったが、仕様書が発表された3月に210台が製造された。試作品としては妥当な数字だろう。11号はともかく生産計画の立たない3号受信機の認可を取るのをメーカ側が躊躇したこともあり、1939年中は量産されることはなかった。

1939年8月7日、逓信省令第36号で放送用私設無線電話規則が改正され、受信機として「逓信大臣ニ於テ聴取無線電話用標準受信機トシテ認定シタルモノ」という項目が追加され、同日の逓信省告示第2295号で標準受信機として「放送局型受信機」が認定され、これで法的な根拠が整った。次いで8月10日の大蔵大臣告示第240号で工場出荷価格26円未満のものに対し、支那事変特別物品税が免除されることになった。 また、1939年9月、ラジオ用品統一委員会はラジオ用品委員会に改組され、資材の配給と調整も担当するようになった。

トランスレス受信機の生産が立ち上がっていない1941年5月10日、11号受信機に1台あたり1円の製作助成金が支払われることになり前年度の実績に対して各メーカーに200円から1600円が支払われた。
このこともあってか11号受信機は1941年に最高の75,052台の生産をあげるが、これ以降減少を続ける。

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ごく初期の放送局型第11号受信機 (1940年6月) (認証番号1103) 大洋無線電機(株)
  

   
「エルマン」ブランドで知られる中堅メーカの局型11号受信機。
同社は11号の製作許可を1940年1月に受けているが、このセットは同年6月製で製造番号が57番と極めて若い。同社最初のロットの製品と思われる。カバー付のトランス、大型の端子板が初期型の特徴。スピーカはまだ鉄フレームのものが使われている。初期型には、57にシールドケースが付かないのが正式な仕様である。パネルに札幌中央放送局の聴取章と思われる銘板が付いている。

写真は、つまみの取り付けが逆になっている。同調側に小さいツマミが付くのが正しい。

(所蔵No.11789)

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初期の放送局型第11号受信機 (1940年9月) (認証番号1106) 大阪無線(株) 
 

  
 
ごく初期の局型11号受信機、高級機で知られる大阪無線の製品。質の良いキャビネットは専門メーカ、オカダケース製である。カバー付のトランス、大型の端子板が初期型の特徴。スピーカはまだ鉄フレームのものが使われている。初期型には、57にシールドケースが付かないのが正式な仕様である。シャーシに日付と製作者のサインが入れられている。製造番号は1326であり、1940年1月末に認証を受けた後、量産された初期のセットと思われる。セミトランスレスのため、シャーシは絶縁され、裏蓋をねじ止めとするだけでなく、感電防止の注意ラベルが貼られている。

本機は、裏蓋の銘板が失われている意外は極めて状態がよく、新品のコンディションを維持している。
写真は、つまみの取り付けが逆になっている。同調側に小さいツマミが付くのが正しい。

 (所蔵No.11614) 掲載誌:無線と実験1939.6

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許容事項適用後の放送局型11号受信機  (1941年) (認証番号11014) 白山無線電機(株)
  

  
電池式受信機で知られる白山無線の局型11号受信機。同社の製品としては初期の製品(No.3856)である。製造許可を1941年1月に受けたため、最初からアンテナ端子盤を省略した許容事項(1941.1.28)が取り入れた形で生産が開始された。この許容事項では、57に、統3号型遮蔽缶(シールドケース)を付けることが求められた。その他は初期の仕様書どおりとなっている。紙製フレームのオリオン58号型スピーカ(利根源製作所製)を使用している。
(所蔵No.11838) 

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 許容事項適用後の放送局型第11号受信機 (1942年9月)  (認証番号1106) 大阪無線(株)
  

  

 
上の初期型と同じ大阪無線の昭和17年製のセット。この間に発表された許容事項が取り入れられている。スピーカが紙製フレームになり、シャーシの端子板が省略され、トランスのカバーが簡略化された。また、製造年月日と製造番号が内部の配置図に記入できるようになり、銘板の表記は略された。スピーカのサランネットも、初期のものは仕様書どおりのデザインだが、このセットには手持ちのものを使ったと思われる仕様書と異なるデザインの布が使われている。キャビネット側板は、当初の仕様では単板が指定されていたが、1941年末の許容事項でベニヤ板が認められるようになった。このセットではこの許容事項を取り入れて側板も合板になっている。キャビネットは大手のキャビネットメーカであるオカダケースで製作された。この時代の局型受信機としては良い仕上げである。

発売から2年経過しても製造番号が1万に達していない。この型式の台数が少なかったことを示している。

本機は、感度を改善するために56による増幅段がシャーシを追加して付加されている。この改造は戦後のものと思われる。写真は、つまみの取り付けが逆になっている。同調側に小さいツマミが付くのが正しい。また、スピーカの止めねじは最近交換された新しいものである。
 (所蔵No.11570) 

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許容事項適用後の放送局型第11号受信機 (1942年8月以降)  (認証番号11014) 白山無線電機(株)
  

  
電池式受信機で知られる白山無線の局型11号受信機。同社は局型メーカとしては後発のほうである。1942年5月29日に出された許容事項による簡略化された裏蓋が採用された後期型のセットである。1942年8月10日認定の、オリオン78号型スピーカ(利根源製作所製)を使用している。シャーシは初期型と大きく変わるところはない。シャーシを固定するねじを止める台座の位置が大阪無線の製品とは異なるが、これは、仕様書にシャーシ止めねじのピッチや位置が規定されていないため。キャビネット側板は、当初の仕様では単板が指定されていたが、1941年末の許容事項でベニヤ板が認められるようになった。このセットではこの許容事項を取り入れて側板も合板になっている。

(所蔵No.11386) 

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華北標準型第十一号受信機 日本精器(株) 1940年
  

    
華北(中国北部)の占領地域で使用された受信機。放送局型11号受信機と基本的に同じもの。電源電圧が110/220Vとなり、ヒューズホルダの形状が異なるのみである。57-47B-12F のセミトランスレス式3球でマグネチック・スピーカを駆動する。スピーカが鉄フレームであること、また、アンテナ端子版の形状から、ごく初期型のものであることがわかる。前面パネル左下に北支標準型3号受信機と同じマークがついていることがわかる。
(所蔵No.11625/11851)
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国策型受信機の流行と局型の伸び悩み

このころ、ラジオ業界でも逼迫した資材の状況に対応し、また、局型受信機との対抗上節約型の受信機を発売するようになっていた。いわゆる国策型受信機である。

1940年(昭和15年)になると、局型11号の生産は伸びてくるが、国策型受信機が売れるほどには11号受信機は売れなかった。
ここで価格を見てみると、昭和16(1941)年の公定価格によると、小売価格は、

 局型 11号 \30.70 (3球マグネチック57-47B-12F:\29.50)
 局型122号 \42.30 (4球マグネチック57-56-12A-12F:\36.60)
 局型123号 \57.60 (4球ペントード58-57-47B-12F:\52.60、ただし規格外受信機)

となっていて、カッコ内の同程度の一般受信機より局型受信機の方が高価なことがわかる。そこで販売促進のため、5月21日、受信機に「放送局型受信機販売奨励券」を添付し、販売時に券を放送局に提出すると50銭の奨励金が出ることになった。

 2月13日、11号受信機に対して最初の改良、仕様書の許容事項が発表された。初めて量産された結果、動作上の不具合や各メーカが採用する部品の入手性やばらつきなどの情報がフィードバックされたものと思われる。主な内容は次の通りである。

 ダイヤルカバーを2ミリ前に出す
 ハム防止のためスピーカとシャーシが触れないようにキャビネット寸法を変更。
 コード引き出し部の寸法を変更
 スピーカフレームから検波管への帰還を防ぐためフレームとシャーシ間に0.001μFのコンデンサを追加
 感電防止のため端子板の構造を変更

中電界級の受信機が使用可能だったのは大電力の関東、大阪を除けば放送局から半径20-40kmの地域である。11号のような3球受信機が使用可能な地域は限られていたのである。12月7日、大阪ラヂオ工業組合から大阪中央放送局に対して11号受信機の感度を改善するための提案が出されている。トランスの巻き線を増やしてB電圧を130Vから160Vに上げるというものである。東京よりサービスエリアの狭い大阪中央放送局ではこの提案に理解を示し、トランスの試作検討まで行われたようだが結局正式な規格にはならなかった。この時のその他の改善案の一部は受け入れられている。

 この年の11号受信機の生産台数は39,717台であり、年間生産台数85万台の約5%に過ぎなかった。資材の節約と全国への普及のためにはトランスレスの高一受信機が必要であった。

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トランスレス受信機(122号、123号)の開発

放送局型11号には間に合わなかったが、放送協会と東芝が共同開発したトランスレス用真空管が1939年8月に発表された。12Y-V1, 12Y-R1, 12Z-P1, 12X-K1, 24Z-K2の5種類である。アメリカのトランスレス管はヒータ電流が0.3Aだが、これでは球数の少ない受信機に使うと消費電力が大きくなってしまうので、消費電力を少なくするためフィラメント電流を150mAに統一したのが特徴である。これは4球受信機の消費電力を20VA以下にするという目標からこの電流が決められたという。3球、4球受信機ではフィラメントを直列にしても電圧が足りないため、フィラメントの保護を兼ねた安定抵抗管を直列に挿入した。4球用B-37、3球用B-49の2種類が量産された。トランスレス真空管の仕様については1938年から39年にかけて放送協会と真空管メーカとの間で4回の打ち合わせ会議が持たれ、フィラメント電圧12/24V、フィラメント電流150mAなどの大まかな規格が決められた。

1940年2月頃からこれらの真空管を使用した東芝受信機41型( 12Y-R1 - 12Z-P1 - 12X-K1)および同51型(12Y-V1 - 12Y-R1 - 12Z-P1 - 24Z-K2)が発売された。業界では放送局型受信機にもこの真空管を使用した高周波1段付き受信機が求められていた。

 東芝によるトランスレス用真空管の開発とあわせて放送協会技術研究所ではトランスレス方式の新型放送局型受信機が開発されていた。試作時には21号A、21号B(後に 22号)、23号という型番で呼ばれていた。これらの受信機の試作仕様書には1939年8月の日付がある。型番は最終的に頭に一桁増えて121号、122号、123号となった。121号受信機というのは12Y-V1検波、12Z-P1低周波増幅で半波整流管12X-K1、安定抵抗管B-61を使用した3球受信機で、中電界級である。回路は東芝受信機41型と基本的に同じものである。半波整流管を使用しているためB電圧が低く、出力が小さい欠点があった。この受信機については正式な仕様書が起きているが、発行されることはなかった。121号受信機はシャーシ構造や外形寸法は122号と同じだが前面パネルが異なっている。

3球受信機については弱電界級に属する122号のみが1940年10月31日、正式に発表された。12Y-R1検波、12Z-P1増幅、24Z-K2整流、安定抵抗管B-49の構成で、マグネチックスピーカを駆動するものである。低電圧で効率的に動作するビーム出力管が作れなかったため、倍電圧整流として300mWの出力を得ている。この解決策は、電界コンデンサの低い信頼性から故障を多発させることになった。

同じ日付で高周波1段付きの123号受信機の仕様書も発表された。真空管の配列は東芝受信機と同じ12Y-V1 - 12Y-R1 - 12Z-P1 - 24Z-K2 - B-37 である。24Z-K2を使った両波倍電圧整流には、プラグの向きに関係なくシャーシに電圧が発生するという問題がある。このため122、123号受信機ではシャーシを陶器または樹脂製の製の「ゲタ」で浮かし、ネジのない差込式のツマミを使い、金属が露出しないようにされた。そして、普通の受信機では溝にはめているだけの裏ふたがネジ止めされ、アースおよびアンテナ線はコンデンサで絶縁された。また、この機種から紙製フレームのマグネチック・スピーカが採用された。放送協会認定の記録によると1942年9月30日の認定更新時に一般の認定受信機数機種が紙フレームに変更されている。

微電界級に属する123号受信機が発表されてはじめて全国で使用できる放送局型受信機ができたのである。1940年中には122号が395台、123号が341台製造されただけだった。 123号は関西系のメーカーで試作されたという。キャビネット前面上部に局面を持つデザインは当時のナショナル、シャープの小型受信機に良く見られたものである。

123号には大きく分けて3つのタイプがある。このうち、当初の仕様書に近い最初のモデルを、ここでは便宜上「初期型」と呼ぶことにする。

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ごく初期の放送局型第122号受信機 七欧無線電気(株) (認証番号12207) (1941年11月)  公\42.30
  

  

初期の122号受信機。退色しているが本来パネル右側はもっと濃い色であった。シンプルだが当時流行のアールデコを取り入れたモダンなデザインだったことがわかる。初期の局型受信機は、放送協会の仕様に忠実に作られ、メーカごとの差異が少ない。 このセットは、製造番号1569の、ごく初期のものである。本来の仕様書ではアンテナとアース線はシャーシ後部側面から端子盤を介して引き出すようになっているが、すぐに許容事項としてシャーシ上部の穴1ヶ所から引き出す形に改められた。

本機は、裏蓋のネットが破れて失われている。

   (所蔵No.11016)

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放送局型第122号受信機 石川無線電機(株) (1941年12月)  公\42.30
  

  
ウェーヴのブランドで知られる中堅メーカ、石川無線電機の122号受信機。ちょうど太平洋戦争開戦の月に生産されている。初期の局型受信機は、放送協会の仕様に忠実に作られ、メーカごとの差異が少ない。 本来の仕様書ではアンテナとアース線はシャーシ後部側面から端子盤を介して引き出すようになっているが、すぐに許容事項としてシャーシ上部の穴1ヶ所から引き出す形に改められた。

(所蔵No.110531)

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放送局型第122号受信機 双葉電機(株)    1942.年11月  公\42.30
  

  
1942年11月の捺印がある122号受信機。1943年には関西系メーカで122号の生産はないので、これが最後の製品となる。裏蓋の構造やラベルの張り方などに許容事項が適用されている。キャビネット正面パネルの色分けが明確に残っていて、本来のデザインがよくわかる1台である。

(所蔵No.110998)

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ごく初期の放送局型第123号受信機 七欧無線電気(株) (認証番号12306) (1941年8月製)  公\57.60

  

   
    裏蓋はネットを張った通風孔があり、塗装もされている。     初期型は銘板が裏蓋にある。
開戦前の日付のあるごく初期の七欧無線製のもの、ダイヤルに減速機構があり、コイルケースがあるのが特徴本来の仕様書ではアンテナとアース線はシャーシ後部側面から端子盤を介して引き出すようになっているが、すぐに許容事項としてシャーシ上部の穴1ヶ所から引き出す形に改められた('41.2.21)。当初の設計では、スイッチ付ボリュームが指定されていたが、独立したスイッチを側面に付けることが許容事項として認められた('41.4.28)。質の良いスイッチ付ボリュームの入手が困難だったためという。同社の認証は1941年5月なので、初期ロットのものと思われる。

本機の電源スイッチは失われている。

(所蔵No.11385)

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当館には同じ七欧無線の1941年12月のセットも所蔵されている。仕様は初期の製品とほとんど同じである。
  
(所蔵No.11751)

同社の12月製造のセットの製造番号は1万台を超えていて、急激に生産が立ち上がった様子が見て取れる。仕様に大きな変化は無い。翌年には許容事項を取り入れた臨時許容型にマイナーチェンジされる。翌1942年になると裏蓋に放熱孔が追加される。5月には生産が1万6千台を突破したことが確認されている。

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 初期型の放送局型第123号受信機 原口無線電気(株) (認証番号123011) (1942年3月製)

  

 
 上の七欧製と同じ初期型だが、これは発売後1年以上経過した1942年の原口無線のセット。キャビネットの側板が、上のナナオラと異なり、単板が使われている。ここには本来合板が指定されていたが、数種類の樹種の単板も許容事項として認められた('41.12.27)。また、このセットもスイッチ付ボリュームではなく、電源スイッチが側面に独立している。この仕様が一般的だったことがわかる。

本機はキャビネットの状態がよく、本来の塗装を残している。

(所蔵No.11357)
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初期型の放送局型第123号受信機 (株)日本蓄音器商会 (認証番号123014) (1942年頃)
 

 
局型製造者としては後発であるコロムビアの123号受信機。高級ラジオや電蓄メーカの同社らしく、キャビネットの仕上げが良い。銘板の項目や並び順は仕様書どおりだが、メーカによって個性があることがわかる。算用数字で「123」と表記するのは厳密には正しくない。局型受信機で「コロムビア」という、ブランドネームを入れているものは珍しい。キャビネットの床と裏蓋に、仕様書にはない穴が追加されている。放熱に問題があったのだろう。裏蓋の穴はこれとは違った形で許容事項として追加されている。銘板の製造年月日の捺印は消えてしまっているが、日本蓄音器商会は、1942年9月21日に日蓄工業(株)に社名変更されている。このセットは製作許可を受けた1941年11月から社名変更までの間に作られたセットである。

右側の大きなツマミはオリジナルではない。また、ねじ止めの裏蓋を簡単に外せるように木片を追加して改造している。

(所蔵No.11800) 

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放送局型受信機の宣伝

戦時下には標準受信機としてラジオの主流となる放送局型受信機だが、123号受信機が発売された1941(昭和16)年の段階では、多くのラジオ受信機の一つにすぎなかった。このため、他のラジオ同様宣伝や売り出しが行われた。次に紹介するのは、長野県伊那郡にあった電灯会社、伊那電気鉄道(株)が1941年10月から11月に実施したキャンペーンのチラシである。すでに公定価格が実施されているため値引きはないが、取り付け工事費とアース工事費が無料、ラジオ本体の6か月保証の特典が与えられている。チラシには時代を反映して戦闘風景が描かれているが、太平洋戦争開戦前なので、中国戦線と思われる地上戦の絵である。

 
「局型受信機の御勧め」 伊那電気鉄道(株) 1941年10月

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ラジオ統制の強化

戦争の激化により民需用ラジオ向けの資材の供給事情が悪化し、統制が強化された。本格的な統制が行われたのは1940(昭和15)年以降だが、1938(昭和13)年から業界団体であるラジオ工業組合によるラジオ用品規格統一委員会が部品の統一規格を検討し、統一委員会は1939年9月、資材に関する連絡調整も行うラジオ用品委員会と改称された。これによりラジオ用部品は局型用の部品を基本とした物に統一された。 1940年12月6日、価格統制令に基づき、商工省告示第799号でラジオ受信機の公定価格が定められ、ラジオの種類が局型受信機3種類(11、122、123号)を含む14種類に限られることになった。放送局型第1号、3号受信機はこの中に含まれなかった。従って、仕様書は生きていてもこの時点で消滅したといえる。
また、1942年10月12日以降、放送局型受信機事務取扱内規が改正され、「第3号」の表記を「第123号」に改めることになった。

標準品種となったものの感度が低く、販路の限られる11号、122号受信機は人気がなく、1943年以降ほとんど生産されなくなる。

資材の逼迫と統制の強化は価格競争力の低い放送局型受信機に有利に働いた。1941年に放送協会と日本ラジオ工業組合連合会が共同で局型需給調整委員会を結成した。この事は局型製造業者に対し資材の入手面で有利になるということであった。

戦争が本格化するに連れてラジオ部品の入手は困難になっていった。このなかで1942年9月8日、東西ラジオ組合、日本ラジオ工業組合連合会は解散し、電気機械統制会傘下のラジオ受信機統制組合が結成された。統制組合の主要メンバーは局型製造業者であり、資材配給面で局型受信機が優遇されるようになった。これに先立ち1942年9月7日をもって放送局型受信機需給調整規定は廃止され、局型需給調整委員会は解散した。ただし、実務として需給調整は引き続き継続される事になったようである。1943年1月1日にラジオ受信機配給会社が設立され、同年、企業整備令により小売店が整理されて統制組合が設立され、ラジオの出荷検査を統制会が行うようになり、統制組織が完成した。

このような中で1942年には38万台の局型受信機が生産された。その半数近い17万台余りが123号受信機であった。この数字は統制組合によるものだが、商工省の統計によるこの年の再生受信機の全生産台数は79万台余りで、約その半数を局型受信機が占めていたことがわかる。

配給により局型受信機が供給されるようになると、宣伝の意味はなくなってくる。一般の受信機と競争していた時代はともかく、統制が厳しくなった後は、専門誌などに、どのメーカも同じ様式の広告が掲載されるのみとなった。

 
局型受信機の広告(ラジオ年鑑、昭和18年版、1943.1)
メーカ名や宣伝文句が異なるのみでまったく同じ様式の広告が並んでいる。

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同一周波数放送による受信状況の悪化

1941年末に太平洋戦争が始まるとラジオ放送の人気も高まったが、1942年(昭和17年)に入るとラジオの生産、聴取加入ともに減少した。これは開戦直後から始まった電波管制のための同一周波数放送、送信出力の低下により聴取できなくなる地域が増えたことも原因となった。これに対しては全国同一周波数から群別放送への切替え、小出力の臨時放送所の設置などが行われたが元のサービスエリアを回復することはできなかった。感度が低い11号、122号受信機の販売には打撃となったらしく、急激に生産を伸ばした123号に対して3球式の2機種は激減することになる。

防空のための電波管制および聴取障害対策として1940年から電話線及び配電線を使用してラジオを送信する有線放送の試験が行われ、有線放送専用の有線放送1号受信機(局型122号準拠)、有線、無線兼用の有線放送2号受信機および通常の受信機に付加する有線放送同調器が開発され、1942年末から実施された。大都市では主に電話線が使われ、地方都市では電灯線が使用された。

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123号の普及と改良 -「臨時許容」型の登場-

 そもそも放送局型受信機は細部まで定められた仕様書に従うことになっていたが、仕様書の発行以来メーカなどからの意見などを入れて様々な許容事項が追加された。

・シャーシの板厚を0.7mmに対して0.5mmで代用可とする(1940.11.28)
・アンテナ、アース引出線端子板を廃し、シャーシ上1ヶ所の穴から引出す形に変更(1941.2.21)
・当初はスイッチ付きボリュームであったが、入手の困難さや信頼性の低さなどからメーカーから改善が求められていた。
 このため側面に独立した電源スイッチを設ける形に変更された(1941.4.28)。
・当初キャビには桜材張りベニヤが指定されていたが、底板や裏蓋と同じシナ、ラワン、桂材などの使用が認められた(1941.12.27)。
・裏ふたの銘板の製造番号と年月日が省略され、セット内部の真空管配置図上に記入するようになった(1942.1.22)。

各社の手持資材活用のため、スピーカーのネット、シャーシやキャビの塗色などはメーカーの裁量により変更してよいことになった。

 そもそも資材節約を念頭において設計された123号受信機であったが、資材の逼迫から許容事項が定められ、1942年3月18日にはマイナーチェンジされた仕様書が発表された。正式には「放送局型123号受信機(臨時許容)」という。ここではこの形式のセットを「臨時許容型」と呼ぶ。臨時許容型の変更点はこれまでに発表された許容事項に加えて次の通りである。

・基本的なデザインに変更はないが、ダイヤルが減速機構付きから直結に変わり、このため同調ツマミの位置が上に上がり、ダイヤル窓の形状が変わった。
・スピーカの飾りねじは簡略化されたものに変更の上、2本止めから4本止めとなった。
・裏蓋に放熱孔が、上下5個ずつ追加された。
・コイルケースを使ってシャーシ上に配置されていた高周波コイルを、検波コイルをシャーシ下に納めることでコイルケースを省略した。
 これによりシャーシのレイアウトが大きく変化した。
 コイルの位置変更は問題ないが、真空管のフィラメントの接続順序が変更され、検波管の耐圧に対して問題のある接続に変更されてしまった。
 この改良は結果的に信頼性を落とすことにつながった。

 この(臨時許容)型が発表されてからも更なる許容事項が追加された。

・裏ふたのネットを省略し、細い横長の穴が空いた形状に変更(1942.5.29)
・届け出の上、スピーカの飾りネジを省略可(1942.7.3)、初期型の2本止めに対し、臨時許容の仕様書で4本止めとされた飾りねじが2本止めに戻された。

 許容事項の導入は各メーカの事情によりさまざまである。このため外観と裏蓋、銘板の組み合わせにいろいろな仕様がある。

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放送局型第123号受信機(初期の許容事項を導入したもの) タイガー電機(株) (認証番号12305) (1942年頃)
  

  
大阪の中堅メーカ、タイガー電機の123号受信機。全体としては初期型だが、裏蓋などに許容事項が取り入れられている。シャーシは他社に見られない側板が短いもので、レイアウトも本来の仕様書とは異なっている。局型受信機のシャーシは銀色が一般的だが、このシャーシの色がこげ茶色なのは、同社が従来からシャーシに使用してきた塗装色のため。当初は細部にいたるまで放送協会の仕様書で規定されていた局型受信機だが、次第に現状に合わせて各メーカの手持資材にあわせたモディファイが許されるようになった。

製造年月日は不明だが、同社は1943年6月に敵性語排除のため利根無線と改称するため、1942年の製品と思われる。
なお、鉄フレームのスピーカはオリジナルでない。また、ごく最近修理された痕跡がある。

(所蔵No.11410)

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放送局型第123号受信機(臨時許容) 松下無線(株) (認証番号12309) 1942年4月 公\61.40
  

  

 
松下の臨時許容型。「放送局型第123号(臨時許容)」として昭和17(1942)年3月18日に仕様書が発行された直後の製品。ダイヤルのデザインとシャーシのレイアウトが変更され、裏蓋に放熱孔が追加された。裏蓋の銘板と内部の注意ラベルは初期型のままで、当初の仕様書にない真空管配置図は付けられていない。

本機は、裏蓋のネットが失われている。

 (所蔵No.11737)

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放送局型第123号受信機 (初期の臨時許容導入型) (有)八欧無線電機製作所 (認証番号123015) (1942年5月) 公\61.40
  

  

  
蓄音器メーカからラジオに進出した新興企業、八欧無線の123号受信機。1942年1月に製作許可を受けてから4ヵ月後の初期の製品である。キャビネットは初期型だが、一部に許容事項を一部取り入れている。ダイヤルや部品配置が大幅に変更された臨時許容の仕様書は1942年3月に発表されている。製作許可が下りて、初期型の仕様書で生産の準備をしていたものと思われる。日付と製造番号をセット内部の真空管配置図に記入する許容事項が適用されているため、裏蓋の銘板には日付と番号がない。裏蓋のデザインは、同年5月29日に発表されている。こちらのセットの製造年月日は5月17日のため「勇み足」となっている。キャビネットに、キャビネット工業組合の証紙が貼ってあることから、内作ではなくキャビネットメーカから購入していたと推定される。

本機は、本来12ZP1である出力管がUY-27Aに改造されている。

 (所蔵No.11793)

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放送局型第123号受信機(臨時許容) 早川電機工業(株) (認証番号12308) (1942年5月) 公\61.40
  

  

  
  裏蓋の銘板(左)と底に貼られた回路図(右)、回路図の表示は義務ではないが、同社の通常の製品同様に表示されている。
シャープの臨時許容型。「放送局型第123号(臨時許容)」として昭和17(1942)年3月18日に発行された仕様書どおりの製品。ダイヤルのデザインとシャーシのレイアウトが変更され、裏蓋に放熱孔が追加された。また、日付と製造番号をセット内部の真空管配置図に記入する許容事項が適用されているため、裏蓋の銘板には日付と番号がない。

 (所蔵No.11573)

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放送局型第123号受信機(臨時許容) 七欧無線電気(株) (認証番号12306) (1942年10月) 公\61.40
  

  
   長野県諏訪郡原村の所有者名が記載されている。
 
    裏蓋に公定価格のラベルがある。内部の配置図に日付と番号が入っているため、裏蓋の銘板の表示は略されている。
七欧無線の臨時許容型。1942年5月の許容事項を追加し、裏蓋のデザインがよりシンプルなものになった。簡略化された裏蓋のスリットは、関西系のメーカの製品より幅が狭くなっている。同社の初期型と比較すると構造の違いがよくわかる。「臨時許容」の仕様書ではスピーカの止めねじは簡略化された飾りねじ4本であるが、このように初期型と同じ2本止めのセットも多かった。また、日付と製造番号をセット内部の真空管配置図に記入する許容事項が適用されているため、裏蓋の銘板には日付と番号がない。本来警告文が赤で2色刷りとなっていた配置図が、単色に変更されている。その製造番号は3万台を超えていて、量産されたことがよくわかる。同社は1943年までこのデザインで生産を続けている。

 (所蔵No.11573)

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放送局型第123号受信機(臨時許容) 戸根無線(株) (認証番号12305) 1943年8月
  

  
タイガー電機から社名を利根無線と変更した直後の臨時許容型。変更内容がほぼすべて取り入れられている。当初は細部にいたるまで放送協会の仕様書で規定されていた局型受信機だが、次第に現状に合わせて各メーカの手持資材にあわせたモディファイが許されるようになった。同社の初期の臨時許容型と比較すると構造の違いがよくわかる。また、銘板の内容がセット内部の真空管配置図に統合される許容事項が適用されている。

このセットはキャビネットの褪色が激しい。

 (所蔵No.11244)

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資材の逼迫と更なる簡略化へ

ちょうどこの頃、技術研究所では更なる資材節約を目指した受信機の研究が行われていた。仕様書(1942年2月付)によれば、それは122号受信機のバリコンをμ同調に変更し、スピーカのフレームだけでなくシャーシまで硬化紙製とした意欲的なものだったがこれは実現することなく終わった。

戦争末期になって放送局型123号受信機はデザインを大きく変更した。123号受信機のデザイン上の特徴である前面パネル上部の曲げを廃し、122号受信機などに似た平面的なデザインに変更されたのである。ダイヤルは臨時許容型と同じデザインのものと、長方形で縦横比の異なるものと2種類ある。この変更の経緯については不明な点が多い。ただ、1943年2月19日に、キャビネットの板厚を薄くする許容事項が出されている。キャビネット各部の寸法から、この時点でデザインが変更されたと考えられる。従来のデザインでは強度が足りなくなったのだろう。

1943年2月22日の商工省告示第117号により、キャビネットの公定価格表に「角型」が追加された(従来型は「角丸型」)。この最終型の受信機に正式な名称はないが、ここでは商工省告示の表記に習って「角型」と呼ぶことにする。

シャーシに大きな変更は見られない。このタイプの製造年で最も早いものは1943(昭和18)年8月のセット(大洋無線電機製)が確認されている。そのほかの当館の所蔵品は1944年(昭和19年)製である。この年になると生産は激減し、わずか3万5千台余りにすぎない。

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角型の放送局型123号受信機 大洋無線電機(株) (認証番号12303) 1943年8月
  
最も早い時期の角型モデル。ダイヤルが本来の123号と異なり、11号に近いデザインに変更されている。
内部は従来の臨時許容型と同じ。この時期はメーカにより従来の丸型と角型が混在している。

(所蔵番号:11A020)

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角型の放送局型第123号受信機 松下無線(株) (認証番号12309) 1944年6月 公\81.80(1944.3.1改正)
  

  

 
松下の角型123号受信機。ダイヤルが本来の123号と異なり、11号に近いデザインに変更されている。
内部は従来の臨時許容型と同じ。

(所蔵番号:11287)

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角型の放送局型第123号受信機 白山無線電機(株) (認証番号123012) 1944年5月 公\81.80(1944.3.1改正)

  
 
 
 
電池式受信機で知られる白山無線の局型123号受信機、ダイヤルに臨時許容型と同じものが使われている。
内部は従来の臨時許容型と同じ。

(所蔵番号:11529) 

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 角型の放送局型第123号受信機 ミタカ電機(株) (認証番号123013) 1944年頃 公\81.80(1944.3.1改正)
  
関東系の大手メーカ、アリアのミタカ電機の角型。ダイヤルの窓は臨時許容型のものだが、目盛板は最終型独自のタイプを使用している。ダイヤルのデザインについては関東系と関西系というような区別はなさそうである。

本機は保存状態が悪かったためにシャーシを再塗装している。サランネットと裏蓋は失われている。

(所蔵番号:11360) 

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 角型の放送局型第123号受信機 原口無線電機製 (認証番号123011) 1944年 公\81.80(1944.3.1改正)
  
 角型の原口無線製123号受信機。同社の初期型と比較すると、いかに簡素で貧弱になったかがよくわかる。アルミのシールドケースは廃され、ブリキ製の最小限のシールドキャップが使われている。原口無線も本来の臨時許容型と異なるダイヤルを使用している。

(所蔵番号:11225)

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 角型の放送局型第123号受信機 大阪無線(株) (認証番号12307) 1944年 公\81.80(1944.3.1改正)
  

  
 高級品メーカとして知られる大阪無線の123号受信機。このタイプのものとしてはキャビネットの仕上げは良い。末期のモデルだが、銘板は初期型のように裏蓋に付けられている。左下の注意ラベルは失われている。

(所蔵番号:11412)

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局型123号の技術的問題点

戦争末期になるとラジオセットだけでなく、部品の入手も非常に困難になってきた。当時は減球といって4球受信機を3球受信機にしたりしてとにかく聞こえるようにする修理(改造?)が良く行われた。このような時に一般的なトランス式の受信機は簡単に真空管を減らすことができ、また、旧式の真空管を含め、手持ちの適当な真空管を使えるように改造することも容易だった。 これに対しトランスレス受信機の場合、ヒータが直列になっている関係上、改造の自由度は低く、真空管の入手も容易ではなかった。

また、出力管がビーム管でなく、効率が低いために両波倍電圧整流を採用したことが信頼性を落とす事になった。片方の2極管部が劣化するともう一方の平滑コンデンサに逆電流を流してしまう。それでなくても質の低かった紙のケースに入れてパラフィンで封止しただけという電解コンデンサはすぐにパンクしてしまった。 また、「臨時許容」により変更された真空管のフィラメント接続は、配線を節約することはできたが、球に過大な電圧がかかることになり、信頼性を落とすことになった。消費電力を減らすためにヒータ電流を150mAとしたことも悪化する一方の電力事情のもとではわずかな電圧低下で感度が下がることにつながった。

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局型受信機の生産台数

 ラジオ年鑑昭和22年版に掲載されている統計を紹介する。

型式 地域 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年(*)
11号 関東 22,288 50,825 29,430 2,366 290 0
関西 17,429 24,470 23,699 1,450 0 0
小計 39,717 75,295 53,129 3,816 290 0
122号 関東 395 45,146 27,251 610 0 0
関西 0 29,906 28,609 0 0 0
小計 395 75,052 54,860 610 0 0
123号 関東 341 53,769 134,209 94,020 12,263 300
関西 0 59,993 140,497 104,890 22,750 800
小計 341 113,762 274,706 198,910 35,013 1,100
総生産台数 40,453 264,109 383,695 203,536 35,303 1,100

(*)1945年の台数は、1月から8月までの総数。

早い時期に生産が開始されたため、1941年までは主流であった11号受信機は、1944年5月、122号受信機は1943年9月以降生産されなかった。感度が低い3球受信機は資材の逼迫、電波管制、電源事情の悪化に伴い需要が減ったと思われる。局型受信機の大半を123号受信機が占める結果となり、出荷(配給)のピークは1941-42年である。これはラジオ受信機全体の出荷台数のピークとも一致する。1942年度については、再生受信機生産台数の約半数を局型受信機が占めている。

戦況の悪化にしたがって1943年から生産台数が減少に転じ、1944年には10分の1近くに激減する。終戦の年である1945年(昭和20年)の生産量はわずか1100台だが、終戦の8月まで出荷されたという。

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局型受信機の戦後、国民型受信機へ

戦争が終わり、GHQにより受信機の統制は解除され、国民への娯楽の供給とともに民主化の手段としてラジオの普及が図られるようになった。そして戦後間もない1945年末には新たな標準受信機として「国民型受信機」規格案が発表された。この規格の中で123号受信機は「国民型1号受信機」として戦後を歩むことになった。1946年10月に認定を取得した帝国電波(現クラリオン)の国民型1号受信機には「国民1号局型123号」と表示されている。国民型1号受信機は各社から13機種(認定受信機のみ)が発売されたが、他の国民型受信機に比べれば少ない。もちろん「放送局型受信機」の文字は削除され、キャビネットの外形やデザインも基本的には角型の局型受信機を流用しているが、細部は変更されている。また、クラウンの国民型1号受信機の回路図を見ると、ヒータの接続が、信頼性の高い初期型の回路に戻されていることがわかる。

123号と同じ配列でダイナミックを鳴らすという国民型3号受信機は松下の1機種しか確認されていない。整流管のみ12Fとし、トランスを使用する2号B型受信機はクラリオンから1機種発売されたのみである。戦後、より悪化した電力事情と真空管の供給不足は、局型および国民型1,3号受信機にとって厳しいものだった。なお、トランスレス用真空管をトランス式で使用する2号B型は、1947年の国民型受信機規格改定時に削除された。

1948年にはフィラメントを150mAから175mAに増やした12Y-V1A、12Z-P1Aが東芝より発表され、12WC5、12ZDH3A、36Z-K2とあわせて「ホームスーパー」シリーズとしてトランスレススーパーに使用された。ただ、12Y-R1A、24Z-K2Aが作られることはなく、既存の123号受信機を改良することはできなかった。ホームスーパーシリーズは開発元の東芝およびシャープなどから発表された数種の受信機に採用されたが普及することはなく、トランスレス5球スーパーの普及はアメリカと同じビーム管を使ったGT、mT管が作られるようになってからである。

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参考文献

 1)ラジオ年鑑 昭和15年版 日本放送出版協会
 2)ラジオ年鑑 昭和18年版 日本放送出版協会
 3)ラジオ年鑑 昭和22年版 日本放送出版協会
 4)ラジオ科学全書(25)ラジオ音響学 ラジオ科学社 1941.5
 5)放送局型11号受信機とはどんなものか 日本放送協会 無線と実験1939.6 誠文堂新光社
 6)局型受信機について 平林金之助 マツダ新報1941.12 東京芝浦電気(株)マツダ支社
 7)ラヂオ公論 第280号 1938.7.30 ラヂオ画報社
 8)ラヂオ公論 第284号 1938.9.15 ラヂオ画報社
 その他、日本放送協会報、放送局型受信機仕様書などを参考にした。

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資料編

局型受信機回路図集 

  
   放送局型1号受信機回路図

 
放送局型3号受信機回路図


放送局型11号受信機回路図


放送局型122号受信機回路図


放送局型123号受信機回路図

 
放送局型123号(臨時許容)受信機回路図

以上図版文献4,5他より

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