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電波三法の成立と民法の開局
The Opening of Private Broadcasting
1950-51


CONTENTS

電波三法の成立 (加筆訂正)
民放開局とラジオ
民放の開局
民放開局とスーパーラジオの普及
参考文献

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電波三法の成立

 放送法成立まで、ラジオを聴くには、政府の聴取許可が必要であった。次に紹介するのは制度が終わる直前の施設許可書である。1949(昭和24)年6月1日に、逓信省が電気通信省と郵政省に分割され、電波行政は外局の電波庁が担当することになった。ラジオの聴取許可は地方支局である電波管理局が担当することになった。組織の変更に伴って許可書の書式が大きく変更された。戦前から変わらない縦書きの書式から、横書きに変更されただけでなく、「注意事項」の届け出を要する事項から「受信機の種類を変更したとき」が落とされている。全波受信機の許可やスーパーの普及など、受信機の多様化を反映したものと思われる。

  
(左)逓信省時代最後の許可書(1949.3.18) と、(右)電波管理局時代の書式(1950.2.22)

この右に示した許可書は、電波三法成立の3か月ほど前に出されたもので、聴取許可制度の再後期の書類である。

 1950年4月26日、占領軍による占領からの独立とほぼ時を一にして「電波法」「放送法」「電波監理委員会設置法」の、電波三法が成立した。同じ日に、旧来の「無線電信法」「放送用私設無線電信電話規則」などが廃止され、現在まで続く体制となった。電波三法は同年6月1日に施行され、これを記念して6月1日は「電波の日」と定められた。電波三法成立の経緯は参考文献(3)に詳しい。新法成立に伴って電気通信省、電波庁は廃止され、電波監理委員会に移管された。電波管理局は電波監理局に移行したが、GHQが要求した独立行政委員会方式は日本にはなじまず、1952年8月1日に電波監理委員会は廃止され、電波行政は郵政省所管となった(6)。

 NHKは、旧「社団法人日本放送協会」から、新たな特殊法人「日本放送協会」に生まれ変わった。放送の独占は失われ、公共放送として放送法により徴収することが認められた受信料を財源とする組織となった。特定の出資者から成る社団法人ではなく、国民の代表者たる国会によって予算が審議され、国民が支払う受信料によって運営する特殊法人という位置づけである。放送法の成立に先立って、1950年3月31日をもってラジオ業界に大きな力を持っていた「放送協会認定制度」や「指定ラジオ店」、「ラジオ相談所」業務は廃止された。

 NHKの受信機業務は、放送技術研究所による技術開発やラジオ普及の啓発や受信障害対策を中心とする聴取者業務のみが残された。
また、電気通信省(旧逓信省)によるラジオ受信機の型式試験制度も廃止された。


最後の?認定品の広告 (無線と実験1950.5)

 電波三法成立後は、ラジオの聴取は自由となったが、設置するものが聴取料を支払う受信契約をNHKと結ぶことが義務であることは変わらなかった。

 それでは、制度変更前後の書類を比較してみよう。いずれも受信が認められたときに送られてくるはがきである。

 
(左)聴取無線電話私設許可書(1948.5.1)  (右)放送受信契約書受理通知書(1952.6.25)

 左の旧制度では、逓信当局による許可となっていて、放送の独占を許されていたNHKの存在は書面上現れてこない。許可書の内容は戦前から大きな変更はなく、はがきは逓信当局の公用郵便である「通信事務」である。これに対して新しい制度の下では、NHKとの受信契約となったことがわかる。文面も命令口調の許可書から、「みなさまのNHK」を思わせるソフトなものに変わっている。はがきが送られてくることに変化はないが、NHKのはがきは許可証ではなく、単なる受信契約書の受領証である。NHKのはがきは料金を支払う官製はがきとなっている。

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民放開局とラジオ

 放送法の成立により、1951年には民間放送が開局することが確かになった。報道などによって、NHK、進駐軍放送に加えて民放が複数開局すると混信が増えて並四では使えなくなるといわれるようになった。
ラジオ雑誌などでは並四や高一をスーパーに改造する記事がはやり、専用の部品も発売された。改造スーパーについてはこちらを参照。1949年にNHKが全国的な受信施設調査を実施した結果、全体の半数が並四、3ペンの高周波増幅のない再生式受信機、高一再生式が4割、スーパーは1割に満たないという状況であった。日本のラジオの半分が使えなくなるということになったら大変である。このため、再生式受信機が売れなくなるという弊害が起こり、聴取者やラジオ市場に混乱が見られるようになった。ラジオ受信機改善委員会では1950年11月に、ラジオの技術をQ&A形式でやさしく解説したパンフレットを制作し、並四は使えなくなるという風説を打ち消すのに躍起になった(5)。下図に、当時頒布されたパンフレットの一例を示す。このような風説が流布した元は、民放開局を良く思わない側の時期尚早論を主張する国会などでの発言といわれる。


1950年6月発行 定価30円 22ページ

 実際には電波庁の方針として、高一受信機を標準として並四受信機についても考慮するということで160kc程度の間隔をあけて周波数の割り当てが行われた。結果として以前から900kc以下の低い帯域を使用していたNHKに対して民放はエリアが狭くなる1000kcより上の帯域に多くが割り当てられ、民放側に不満が残る割り当てとなった。このため、再免許時には再生式受信機が少なくなっていたこともあって多くの局が低めの周波数に再割り当てされることになった。

 ラジオ業界では、ドッジラインによる不況も重なって、特に再生式受信機を製造する中小企業には打撃となった。しかし、大手メーカーでは民放開局をにらんで1950年後半から新型の低価格5球スーパーを発売した。これらは、従来1万5千円程度であった5球スーパーを1万円から1万2千円程度の価格としたモデルである。真空管は出力管6ZP1、整流管12Fという安価な球を使い、トーンなどのアクセサリは無く、パーマネント・ダイナミックを使用しているのが特徴である。松下電器は1950年夏にモデルチェンジした新製品を「民間放送型5球スーパー」と称して大々的に発売した。

 
ナショナルUS-100 「民間放送型」5球スーパー 松下電器産業(株) 1950年    (所蔵No.11877)

松下は、「民間放送型」をコストダウンしながら毎年モデルチェンジし、1952年までこの名称を継続した。

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民放の開局

 1951年4月21日、日本最初の民間放送局16局に予備免許が与えられ、放送は新たな時代を迎えた。
16局を列記すると次のとおりである。

東京:ラジオ東京(現在のTBS)、日本文化放送(現在の文化放送)、
名古屋:中部日本放送
大阪:新日本放送(後の毎日放送)、朝日放送、神戸:神戸放送
札幌:北海道放送、仙台:仙台放送(後の東北放送)
広島:広島放送(後のラジオ中国)
金沢:北陸文化放送(後の北陸放送)、富山:北日本放送、福井:福井放送
徳島:四国放送
福岡:ラジオ九州、久留米:西日本放送

 同年7月20日には日本民間放送連盟(任意組合)が結成された(1952年7月21日に社団法人となる)。そして9月1日、中部日本放送(名古屋)と新日本放送(大阪)によって日本最初の民間放送が開始された。
次いで11月11日に朝日放送(大阪)、12月1日にラジオ九州、12月24日にはラジオ東京と京都放送が開局した。翌1952年には遅れて予備免許を取得した信越放送(長野)、静岡放送、ラジオ新潟を含む12社が続けて開局した。1953年にも開局が続き、民間放送はわずか2年で全国で32社を数えるまでになった。 ラジオメーカは、民放開局にあわせて新型ラジオの売り込みに努めた。当時の広告の一例を示す。


民放開局直前の広告 早川電機工業(株) アサヒグラフ1951.5.30より

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民放開局とスーパーラジオの普及

 民放開局により放送局の数が増えると、ラジオには高い分離性能が求められた。このため、民放開局が確実となった1950年以降、旧式な再生式受信機は売れなくなり、再生式の生産は激減し、新しいラジオの大半がスーパーとなった。ただし、この再生受信機を追い詰めた「民放が始まったら並四は使えなくなる」というのはいささか過剰な反応であった。このため、実際に民放が開局してみたら、それほど混信しないということで地域によってはラジオの売れ行きが落ちたという(4)。それでも都市部では混信が発生し、局数の増加に向けてスーパーが望まれるようになった(4)。

 戦前のラジオ生産量のピークは1941年の92万台だが、民放開局前年の1950年にはドッジラインによる不況の影響で29万台にまで激減した。翌51年には多少回復したものの47万台に過ぎない。これが1952年には戦前の水準を越える103万台、53年には150万台と激増した。52年にはNHKの受信契約者も1000万を越えている。まだ輸出はほとんどなく、経済が戦前の水準を超え、「戦後は終わった」と言われるのはまだ数年先のことである。朝鮮特需による景気回復と成長基調はあったが、低い経済水準であっても戦前には考えられなかった高性能のスーパー受信機が大量に売れたのである。

 これには、1951年8月に、通商産業省により決定された「放送受信対策要綱」に沿ったラジオの月賦販売の推進も寄与しているが、もっとも大きな理由は、やはり民放の開局により放送が面白く、多彩なものになったことであろう。特に戦前の3局合同以来、全国中継放送中心だったNHKに対し、各地に開局した民放は、娯楽性に富み、地元に密着した放送内容で人気を博した。戦前行われた放送の全国一律化により、遠距離受信可能な高感度や分離性能を備えた高性能なラジオは必要なくなった。このことが低性能な再生式受信機を普及させた原因であるが、多彩な民放の開局は、多局化した都市部だけでなく、地元に民放のない地方の富裕層の間にも、高性能なラジオ受信機の需要をもたらしたのである。

 戦前、放送協会は経済力の低さから高性能な受信機の普及は望めないとして放送局を多数設立することで低性能な受信機の普及を促進していた。しかし、高性能な受信機を必要とし、かつ魅力的な放送という環境ができたことでメーカーの企業努力が始まり、日本でもやっとアメリカ並みの高性能受信機の普及が始まったのである。無論、NHKも民放とともに切磋琢磨し、魅力的かつ高品位の番組を提供することで聴取契約を大幅に伸ばしたのである。

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参考文献

(1)民間放送年報(昭和28年度資料) 1954.9 (社)日本民間放送連盟
(2)NHK年鑑 1953年版 日本放送協会 (財)ラジオ・サービス・センター
(3)私の電波史(上下) 戦後の電波界うらおもて 阿川秀雄 1976年 善本社 
(4)電気店専門誌 ナショナルショップ 1951.12 松下電器産業(株)
(5)ラジオ電気新聞 1950.11.8 ラジオ電気新聞社
(6)波濤 電波とともに五十年 網島 毅 1992年 (財)電気通信振興会

 

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