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東京中央放送局(JOAK)懸賞当選受信機
1928-33


CONTENTS


はじめに

昭和3年度日本放送協会関東支部ラジオ受信機懸賞

サンダー F.S. 82型 3球鉱石レフ 富久商会 1928年 40.00円 (一等当選)

昭和5年度東京中央放送局懸賞エリミネータ受信機 

コンドル受信機 4球再生式 坂本製作所/田辺商店 1930年 36.00円 (一等当選)

昭和6年度東京中央放送局懸賞エリミネータ受信機

コンドル12号 坂本製作所/田辺商店 1931年 35.00円 (一等当選)

当選受信機風のセット ラッキー 4球再生式 Taiyo Battery Works. 1931年頃

 松下のラジオ参入と一等当選 (加筆訂正)

3球1号型”清聴用” 3球固定再生式 1932年

3球2号型”容量再生式”と4球1号型”音量調節付” 1932年

5球1号型 R-51”超遠距離用” 高一付5球再生式 1932-33年
1号機の失敗とその後の松下のラジオ事業
松下の1号機のマイナーチェンジと型番の付与 (加筆訂正)

「当選号」という言葉 

愛知発明協会懸賞募集 1931年

シャープダイン3球受信機 早川金属工業研究所 1931年 (二等当選)

新ナショナル受信機意匠図案懸賞募集 1932年 松下電器製作所

大阪朝日ラジオ受信機懸賞募集 1932年

その後のラジオコンテスト

ハドソン62型 高一付4球 合名会社 湯川電機製作所 1932年 (大阪朝日一等当選)

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はじめに

ラジオが本格的に普及した昭和初期、ラジオの品質は悪く、聴取契約廃止時理由の多くを機器の故障が占めていた。放送局としては普及のために安価で性能の良いラジオを求めていた。東京中央放送局(JOAK 、現在のNHK東京)は、機器認定制度を始めるとともに、低コストで高性能な受信機の普及を目指して1928年から懸賞募集(コンテスト)を実施した。「懸賞当選」という言葉の響きから、プレゼントの景品のように思われている向きも多いが、実際にはコンテストの一位ということである。

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昭和3年度日本放送協会関東支部懸賞募集

1928(昭和3)年度に開催された最初の懸賞募集では、電池式、エリミネータ式の区別は付けられずに募集された。一等には、千円という高額な賞金が用意された。応募総数143点に対し5点が入選し、そのうちの4点はエリミネータ受信機であった(4)。次に1等に当選した富久商会のサンダー受信機を示す。ちなみに、2等に選ばれたセットは、放送局推薦の鉱石検波2段拡大の回路であった。

サンダーF.S.82型 鉱石検波レフレックス3球受信機 富久商会 1928年 40.00円
  

 
 型番表示がブロック体のモデルもある(S11086)
TUBES: UX-201A X3, 固定鉱石

1等に選ばれたセットである。応募した試作品は、レイアウトはほぼ同じだがキャビネットのデザインやダイヤルの形状が異なっている。型番の"82"は、懸賞募集の応募番号が第82番であったことに由来する。初期のエリミネータ受信機によく見られた201Aを使った鉱石レフで、整流管も201Aである。富久商会は発表の翌月の6月から次回の懸賞の当選者が決まる直前まで一等当選を大々的に謳った広告を掲載している。

本機は、低周波トランスが交換されている以外は、梱包も含めてほぼ完全な形で発見された。
この機種は、長く生産されため、型番表示のロゴなど細部が異なるモデルがある。

(管理No.K11003) (個人蔵)  / (委託No. S11086) 柴山 勉コレクション

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昭和5年度東京中央放送局懸賞エリミネータ受信機

昭和4年度には、懸賞募集は開催されなかった。エリミネータ式が急速に普及し始めていたが、電池式のラジオや鉱石ラジオもまだまだ使われていた。技術の方向性が混沌としていただけにコンテストを開催できなかったのだろう。事実、この頃のラジオ雑誌を見ると、ミゼット型などの最新のエリミネータ受信機とともに、鉱石検波器やホーンスピーカの広告も多く、最も立派な1ページ広告を掲載しているのがバッテリーメーカという状況も続いていることがわかる。

翌1930(昭和5)年度に開催された2回目の懸賞募集では、応募対象がエリミネータ受信機に限定され、その他の条件も厳しくなった。前回同様、家庭用として経済的で取り扱いが容易であることはもちろんだが、下記の5つの条件が求められた(5)。

(イ)聴取波長範囲が300から580m (517-1000kc)であること
(ロ)鉱石聴取区域でスピーカーが鳴らせること
(ハ)電灯線をアンテナに用いないこと
(ニ)レフレックス回路を用いないこと
(ホ)ラジオ機器認定に合格する素質のある事

当時は1000kcより上の帯域に放送局がなかったので、受信周波数帯は狭い。しかし、前回当選したレフレックス方式は不安定であることから除外された。

応募総数は前回より大幅に増えて384件、そのうち、実際に製作した受信機を応募したものが252台であった。一等の賞金は前回同様千円であった。審査結果は二等がなく、一等が2点、三等が5点選ばれた。一等の2点は、乾電池の発明で知られる屋井乾電池ラヂオ研究所と、コンドル受信機の坂本製作所に与えられた。電池メーカからセットメーカへの脱皮を目指していた屋井乾電池のセットは、締め切り日にやっと完成した試作品であったが、コンドル受信機は、雑誌に掲載された同社の原愛次郎氏の所感(6)によれば、懸賞募集のための試作品ではなく、1930年1月に発売した量産品を抜き取って応募したものという。大正時代からラジオに取り組んでいた坂本製作所ならではである。屋井乾電池は結局ラジオセットに進出することはできなかった。一等に当選したコンドル受信機の広告と実機を次に示す。

 
一等当選を謳うコンドル受信機の広告(ラヂオの日本1930年5月号)

コンドル受信機 4球再生式 坂本製作所/田辺商店 1930年1月発売 36.00円 
  
TUBES: 227 226 112A KX-112A , 550-1100kc,

当時のトップメーカであった坂本製作所の4球受信機。アメリカの影響を受けて一時的に流行した金属キャビネットを使用している。このセットは1930(昭和5)年度東京中央放送局エリミネータ―受信機懸賞募集において一等当選となった機種である。懸賞の条件に「ラジオ機器認定に合格する素質のある事」とある通り、この懸賞募集で高い評価を受けたため、1930年9月に放送協会認定を受けた。この機種には写真のRCA 100B型スピーカをコピーしたマグネチックスピーカが組み合わせられるが、スピーカは遅れて発表され、認定は取得していない。

(所蔵No.11A070)

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昭和6年度東京中央放送局懸賞エリミネータ受信機

3回目となる1931(昭和6)年度は、対象が整流管を除いた2球式(3球)式のエリミネータ(交流式)受信機に限られた。ただし、真空管の数を限定したため、鉱石受信機の追加および、前年度では禁止されたレフレックスも使用可となった。賞金総額が二千円となり、一等の賞金は350円に減ったためか、応募総数は前回の半分を少し超える167台で、この中から21台が入選した。また、一般用受信機部門の他に、二重放送用のカテゴリが設けられ、それぞれ賞が与えられた。

1931年6月に募集が締め切られた3回目の家庭用3球エリミネータ受信機の懸賞募集では、前年に引き続き坂本製作所(コンドル)が一般用、二重放送用の両方に一等当選したほか、松下電器製作所という、後の日本のラジオ史に大きな足跡を残すメーカの自社開発のものとしては最初の製品が一等に当選したことで知られる。松下は一般用のみの出品であった。一等にはこのほかに日本無線電信電話(株)(現日本無線)、松崎ラジオ商店(シルバーライン)があった。

応募されたセットの中で最も多かったのは、真空管検波、低周波1段の3球式であった。交流式になって昼間送電がない地域でラジオが聴けないという問題が発生していたため、放送局としては鉱石ラジオ兼用となる鉱石検波低周波2段拡大のようなセットを求めていたが、性能が低く、応募は5点しかなかった。デザインとしては、スピーカが分離されたスタイルから一体型のミゼット型へと変わる過渡期のため、両方の形が混在している。

放送局は、簡単な回路の受信機で受信できるように送信電力を増強し、放送局を増設したが、実際には、当選受信機のような3球受信機で受信できるサービスエリアは、日本の地形では広がらなかった。この懸賞の後、数年間は3極管検波、1段増幅の3球受信機が多く生産されるが、部品のコストダウンもあって低周波2段の、いわゆる並四受信機が主流となっていくのである。


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コンドル12号 3球再生式受信機 (東京放送局懸賞一等当選受信機) 1931年 坂本製作所/田辺商店 35.00円
   

TUBES: UY-227 UX-112A KX-112B, Regenerative, Magnetic Speaker

1931年(昭和6年)、東京中央放送局(JOAK)が開催した、家庭用3球式エリミネーター受信機の懸賞募集の一等に当選した受信機は4種類だが、この中で松下電器の製品が、非常に有名である。しかし、このコンドル12号も、同じ一等当選受信機である。当時第二放送の放送開始に伴い、この懸賞では別部門で二重放送対応受信機として、第1、第2の切り替え機能を持った20型受信機も当選したが、この12号は一般用である。同時に当選した二重放送対応機が第1、第2の切り替えに使っていた接点をピックアップとラジオの切り替えに使用している。回路はごく平凡な227-112A-112Bの3球式だが、小型のキャビネットにうまくまとめられている。坂本製作所は現在日本通信工業として存続している。

本機はかなり良い保存状態であるが、残念ながら回路が57S-6ZP1-12Fに改造されている。
掲載誌:無線と実験 1931.12
(所蔵No.11557)
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当選受信機風のセット ラッキー 4球再生式 Taiyo Battery Works. 1931年頃
  
TUBES: 227-226-112A-112B (227-26B-12A-12F)

当選受信機が話題になったために似たような小型のセットを作るメーカが現れた。これはその一つで大阪の中小メーカが発売したもの。キャビネットの幅はコンドル12号と全く同じである。ただ、当選受信機が3球式であるのに対して、こちらは4球式のため奥行きが数センチ大きい。このスタイルのセットは、懸賞当選が話題になった一時期だけの流行であった。このセットの裏蓋は、良くある上に持ち上げて外すのではなく、後ろから見て右にスライドさせて引き抜くというものである。
(所蔵No.11A134)

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松下のラジオ参入と一等当選

1931年(昭和6年)度の懸賞募集の一等に当選した受信機はコンドル12号他4種類だが、この中で松下電器の製品が非常に有名である。

松下は1930(昭和5)年8月に二葉商会電気工作所の北尾鹿治と共同で国道電機製作所(株)、略称KDS(以下国道電機)を創立してラジオ事業に参入したが、あくまでも無故障の誰でも扱えるラジオを目指した松下と当時のラジオ業界の標準的な品質を販売業者の技術でカバーする一般的なやり方を主張した北尾との方針の違いから同年3月に提携を解消し、国道電機の工場を引き取って松下の第7工場としたが、ラジオの技術を持った従業員は会社を去った。

松下幸之助はラジオ事業を継続するために国道電機で開発した製品や部品の製造販売を続けながら、新しいラジオの独自開発に取り組むことにした。開発の目標として東京中央放送局エリミネータ―受信機懸賞募集に応募することを掲げ、研究主任の中尾哲二郎に命じて3か月の努力で試作品を完成させ、6月に試作品を懸賞に応募した。懸賞に出品された松下のセットはスピーカ一体型の金属ケース入りのミゼット型だった。半年かけて製品化に取り組んだが、懸賞出品時のミゼット型ではなく、オーソドックスなスピーカを分けたデザインで発売された。自社開発1号機は1931年末から1932年1月頃に市販を開始したが、11月には一等当選が発表されたため、松下は「一等当選」を打ち出して宣伝した。キャビネットは頑丈な厚い板で作られ、漆塗りが施された豪華なものだった。シャーシは生産性とサービス性を改善するためにユニット化され、何重にもシールドされた複雑なものになった。

国道電機時代の製品を「ナショナル受信機」と称したため、これと区別するため自社開発の新製品を「新ナショナル受信機」と呼んだ。

懸賞に出品したのと同じ回路のセットが3球式”清聴用”である。

ナショナル3球1号型 ”清聴用” (R-31型) 3球固定再生式 1932年


TUBES: UY-227 UX-226 KX-112B, Magnetic Speaker

三極管検波の固定再生式で低周波増幅は電圧増幅管226の1段増幅で、再生調整がないため操作部は電源スイッチと同調ツマミしかない。音量を調節するには同調をずらすしかないが、元々音量は小さく”清聴用”と名付けられた。放送協会のコンテストでは高く評価されたが、この機種は商品価値が低く、発売後半年ほどたった1932年後半には製造が中止された。

本機はオリジナルのパネルに復元されているが、低感度を補うために再生調整用豆コンが追加されていた。

(個人蔵、管理No.K11002)

音量、感度とも不十分な”清聴用”だけで市場をカバーできるはずもなく、松下の最初のラジオは、3球から5球まで4種類が用意された。


ナショナル4球1号(1701)型(左)と3球2号(1602)型 1932年 松下電器製作所 (柴山 勉コレクション)


同じ3球式だが、容量再生として出力管を112Aとした3球式”容量再生式” (1602型)が用意された。上位機種として4球式”音量調節付” がある。227 226 112A 112B の、後に並四と呼ばれることになる再生式の回路である。この方式のラジオの場合はボリュームコントロールはなく、再生調整が音量調節を兼ねるものが多いが、松下は再生調整の他に音量調節を付けている。これは、松下が取り扱いのしやすさを求めたことに加えて、当時の大音量を求める風潮に反して、適度な音量と高音質を訴求したことによる。

上の写真はこの2機種を並べたものだが、デザインは共通するが、サイズが異なっていることが分かる。試作段階で最も小規模な3球式から開発したため、上位機種とサイズをそろえることができなかったのだろう。
最上級機種として次に紹介する5球式”超遠距離用”が、少し遅れて1932年3月に発売された。

ナショナル5球1号型"超遠距離用"(R-51型)  高一付5球再生式受信機 (1932-33年 松下電器製作所)

  

  
  シャーシの銘板と、東京電気の特許許諾証

TUBES: UY-224 UY-227 UX-226 UX-112A KX-112B, TRF, Magnetic Speaker

高周波1段付低周波2段 の5球で、マグネチック・スピーカを駆動する。5球式は最もサイズが大きい。結局、本体のサイズ、デザインの細部は4機種とも異なり、スピーカも大小2種類存在する。
本機のキャビネットは再塗装されている。また、電源スイッチと真空管、シールドケースが失われている。
(所蔵No.11750)

1号機の失敗とその後の松下のラジオ事業

松下のラジオセット1号機となるこのシリーズの製品は、故障が少なく、信頼性が高いラジオを目指して設計されたため、主要部品をすべてケースに収納する構造になっている。キャビネットも分厚い板で作られ、仕上げは漆塗りという手のかかったものであった。理想の高いセットは高価なものとなって(3球式で45円)商品としては失敗した。松下はこのシリーズ1本で1932年のラジオ業界に参入したが、すでに時代はミゼット型ラジオが主流となっていて、スピーカが分かれたスタイルのこの製品の古さは隠せなかった。松下は流行を追ってミゼット型ラジオを開発し、1932年春頃には市場に出した(R-33,42型)が、従来のシリーズを「ミゼット型」に対して「標準型」としてカタログに載せ続け、ペントードを採用した3球4号型(R-34) と4球3号型(R-43) が追加された。これらの改良モデルは周波数特性を改善して音質を良くすることを目的としていたが、当時の聴取者の要望に合っていたとは言えなかった。当時のラジオは「良い音」ではなく「大声」が出ることが求められていたのである。

松下電器製作所のラジオ部門は1号機が売れなかったことで大きな赤字を抱え、1933年に経営危機を迎えることになったが、松下幸之助は最初のモデルが売れなくても値下げすることはなかったという(3)。この年に市場の要望に即した安価なマーツ・シャーシが発売されることで松下のラジオ事業が軌道に乗った。高品質の製品の原価に適正な利潤を乗せて販売するという原則を貫いたのであるが、このことはナショナルラジオのブランド価値を高めることになり、後に中級受信機R-48型や普及型受信機K-1型が発売されるときには、顧客に「割安な高級品」という印象を与えることに成功した。

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松下の1号機の型番の付与とマイナーチェンジ

当初は他のラジオメーカ同様、機種数が少ないために公表された型番がないが、3球式にペントードを使った機種が追加されて3種類となり、清聴用を3球1号、容量再生式を3球2号、ペントード抵抗増幅型を3球3号と称した。4球式は4球1号、5球式は5球1号である(2)。実際には他の電気器具と共通の4ケタの数字による品番が付与され、3球2号は1602、4球1号は1701である。

1932年春頃にはミゼット型ラジオも発売されるなど、機種数が増えたことでラジオを意味するR-**という型番を付与するようになった。”R"に続いて球数、開発順(また発売順)の数字を並べるルールのようである。3球1号型”清聴用”は、R-31、3球2号型”容量再生式”をR-32、ペントードを採用した3球4号型がR-34、4球1号型”音量調節付”がR-41、4球でペントードを採用した追加モデルである4球3号型は、R-43である。最上位の5球1号型”超遠距離用”にはR-51の型番が付与された。3球3号型(R-33)と4球2号型(R-42) はミゼット型である。

放送協会の懸賞に当選したオリジナル回路の、3球1号型”清聴用” (R-31)は、商品価値がなく、1932年夏頃にはカタログから落とされた。

1933年に入って「標準型」は、ミゼット型と共通のシャーシを使った小型のモデルにマイナーチェンジされた。ペントードを使用したR-34とR-43は、特性改善のために抵抗結合に変更されて型番が変わりR-38、R-47になった。番号が飛んでいるのはミゼットの新型が間に入っているからである。最初に発売された一連のラジオの中では最上級の5球式のR-51型のみがそのままの形で販売されていた。

松下は1932年中はミゼット型も含めて自社のラジオを「新ナショナル受信機」と呼んでいるが、広告を見ると徐々に「新」の文字が小さくなり、1933年度からは「ナショナル受信機」となっている(8)。

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「当選号」という言葉

この松下の1号機は現在では通称「当選号」と呼ばれることが多い。この言葉はPHP出版などから多数出されている松下幸之助関連の書籍にも現れているので広く知られているが、発売当時の広告などには「一等当選」の文字はあるが、この1号機を「当選号」と称している資料は発見されていない。本当に「当選号」と呼ばれたモデルは別に存在する。1933年に発売されたR-36, R-37, R-45, R-46型の一連のミゼット型ラジオである。これらの機種は、1932年6月に松下が開催したミゼット型ラジオキャビネットの意匠図案懸賞募集に当選したデザインを製品化したものである。これらの機種は広告などに「当選号」と記載されている。あまり知られていないこの機種に使われた「当選号」というわかりやすい名称が、後年になって1号機のほうの当選受信機と混同されて使われたのではないかと思われる。また、3球1号型”清聴用”のことを”清聴号”と呼ぶこともあるが、このような言葉も発売当時には存在していなかった。レアなモデルに対して付けられた「コレクター用語」であろう。

最初に他社と合弁で発売した国道電機のラジオを「ナショナル受信機」と呼んだことから、この一等当選で知られる松下独自のラジオ1号機のシリーズは「新ナショナル受信機」として宣伝された。古い時代の松下幸之助の著書や社史にはこの言葉が使われている。あえて呼ぶとすれば、この1号機のシリーズは「新ナショナル受信機」と呼ぶべきであろう。


「新ナショナル受信機」の広告(ラヂオの日本1932年5月号)

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愛知発明協会懸賞募集 1931年

JOAKの昭和6年度懸賞募集とほぼ同時期に名古屋放送局(JOCK)管内で愛知発明協会主催の2球(整流管込みで3球)受信機の懸賞募集が開催された。応募総数は33台と少なかったが、一等当選は該当がなく、二等が3点選ばれた。音質の点で不十分で、一等に該当する卓越したものがなかったという講評であった。有名なものとしては、早川金属工業研究所のシャープダイン受信機(金属箱)が入選している(1)。

シャープダイン3球受信機 早川金属工業研究所 1931年
  この写真は同じキャビネットを使う4球式のものである。
TUBES: 224 112A KX-112B

早川は、応募受信機の多くが検波管に227を採用する中、数少ない最新のスクリーングリッド管224を採用したセットを提出した。これも昭和5年度の坂本製作所同様、特に応募のために作ったものではなく、既存の量産品を2種類チェックして提出したものの一つが当選したという(7)。

(所蔵No.11958)

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新ナショナル受信機意匠図案懸賞募集 1932年 松下電器製作所

翌1932(昭和7)年には放送協会による懸賞募集は実施されなかった。懸賞募集で大きな広告効果を得た松下電器製作所は、自身でキャビネットのデザインコンテストを開催した。これは、いささか旧式のスピーカが本体と別れたデザインで登場した「新ナショナル受信機」に、新型として追加されたミゼット型ラジオのキャビネットのデザインを募集したものである。
この懸賞募集は、今までの放送局が開催した懸賞募集が、主にラジオのハードウェアの性能を評価するもので、外観については試作然としたようなものでも当選しているのに対し、中身は既存のシャーシを使う前提でデザインのコンテストを実施したところに新しさがある。ハードウェアがある程度の完成度になり、標準的な構成も固まってくると、次に商品として差別化するのはデザインと価格ということに松下は気が付いていたのだろう。この年から数年前のアメリカで起きた、画一的なT型フォードに対し、デザインや色のバリエーションで広くユーザを捉えたGMの競争を連想させる。

 
意匠図案募集を知らせる広告 松下電器製作所 1932年 (出典不明)

コンテストの一等には正面を全面布張りとした斬新なデザインが選ばれ、1933年の新製品「当選号」R-36, R-37(3球式), R-45, R-46(4球式)型として市販された。これが本当の「当選号」である。実際にはこの当選号は、デザインが斬新すぎたためか、それほど売り上げには寄与しなかったようだが、デザインとともにもう一つの大切な要素である価格を追求した安価な「マーツシャーシ」はヒット商品となり、松下のラジオ事業立て直しの契機となった。

 
当選号(左上)とマーツシャーシを紹介する広告(ラヂオの日本1933年2月号)
「新ナショナル受信機」の「新」の文字が少し小さくなっているのに注意

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大阪朝日ラジオ受信機懸賞募集 1932年

放送局の募集がなくなった1932(昭和7)年度には松下電器製作所のほかにも新聞社など民間で募集したものがあった。次にその一例を示す。

ハドソン(NPS HUDSON) 62型 高一付4球受信機 合名会社 湯川電機製作所 1932年
  
TUBES: 224 227 112A 112B (57S 56 12A 12FK) , Magnetic Speaker, PU端子,

1930年代前半を代表するメーカの高一受信機。このセットは、大阪朝日新聞社主催のラジオコンテストにおいて一等に当選した。

電源スイッチ、スピーカはオリジナルではない。ツマミは当館で似た形のものを取り付けた。

掲載誌:ラヂオの日本 1932年11月号広告
(所蔵No.11A041)

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その後のラジオコンテスト

その後も放送協会は無妨害再生受信機の懸賞募集(1934年)などを開催するが、機会は少なくなっていく。懸賞募集が毎年のように開催された1928年から1931年は、電池から交流電源へとラジオが大きく変化していく時期に、多くの部品メーカや松下のような新興メーカが、ラジオセットのメーカを目指して切磋琢磨した時代であった。そして、松下のように一等当選がラジオ事業の発展の原動力となった例もあった。一般から募集してのコンテストという形態は、ベンチャー精神にあふれた発展途上の時期だったからこそイベントとして成り立ったのだろう。

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参考文献

(1)ラヂオの日本 1931年12月号、1932年5月号(広告) 日本ラヂオ協会
(2)松下電器月報 No.33 1933年8月 松下電器製作所
(3)私の生き方 考え方 松下幸之助 1986年 PHP文庫
(4)ラヂオの日本 1928年5月号 日本ラヂオ協会
(5)ラヂオの日本 1930年5月号 日本ラヂオ協会
(6)ラヂオの日本 1930年6月号 日本ラヂオ協会
(7)ラヂオの日本 1932年1月号  日本ラヂオ協会
(8)松下電器宣伝70年史 1988年 松下電器産業株式会社




















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