戦前の短波ラジオ
-全波受信機、戦前の海外放送聴取-
All Wave Receiver at Pre War
1935-45
はじめに
法制面からの検討
短波受信の始まり
1935年頃の全波受信機
G-E Radio Model M-51 General Electric Company (U.S.A.) 1936
戦前のアマチュア無線用受信機 (NEW)
1-V-1 自作短波受信機 高一付き再生式 1937年頃 (NEW)
海外放送受信取締りの強化
輸出用全波受信機への取り組み
RCA Victor Q-33型 8球5バンドオールウェーブスーパー RCA Manufacturing Co.(U.S.A.) 1940年
ローヤル JA-9型 8球4バンドオールウェーブスーパー 原崎無線工業(株) 1943年頃
デリカ AC型 8球4バンドオールウェーブスーパー 三田無線電話研究所 1942年頃 (NEW)
全波受信機の生産量
戦時中の短波受信の実態 (加筆訂正)
戦後の全波受信機
参考文献
放送開始から太平洋戦争が終結するまで、日本では短波放送の受信は禁止されていた。しかし、その中でも少数の全波受信機が生産、輸入されていた。本稿では、その実態について検証してみたい。
(注)全波受信機(All Wave Receiver)は、本来は通信用の短波帯すべてを受信できる機器のことを示すが、日本では、中波の他に海外放送用の短波のバンドが付いただけのモデルにもこの言葉が使われた。本稿では、主に民生用ラジオを取り上げているので、広い意味で全波受信機の用語を使う。
日本の無線通信は、1915(大正4)年に成立した「無線電信法」により、電波法令の整備が始まった。同法第1条には、「無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌す」とあり、国家の管理化に置かれることが明示された。第2条で、私設無線電話に主務大臣の許可を要すことが示され、第16条で無許可施設に対する罰則(1年以下の懲役または千円以下の罰金)、17条で、施設の目的外使用の罰則(千円以下の罰金)が定められている。ラジオに関しては、1923(大正12)年に制定された「放送用私設無線電話規則」により細則が定められた。受信機の要件について定めている第14条を以下に示す。
「聴取無線電話ノ受信機ハ逓信大臣ニ於テ聴取無線電話用標準受信機トシテ認定シタルモノ、電気試験所ノ型式試験ニ依り聴取無線電話用受信機トシテ其ノ型式証明ヲ受ケタルモノ又ハ左ノ各号ニ適合スルモノタルコトヲ要ス但シ所轄逓信局長ノ許可ヲ受ケタル場合ニ限リ第一号ニ依ラザルコトヲ得
一 周波数(波長) 550kc (545m)乃至 1500kc (200m)ノ範囲内ニ限リ受信シ得ルコト(以下略)
これにより、ラジオの許可は中波のみのセットにしか与えられないことになった。しかし、無線電信法および放送用私設無線電話規則では、中波以外の波長を受信できるラジオの製造、輸入、販売に関してはまったく規定されていない。また、第14条の但し書きにより、「逓信局長の許可」を受ければ使用できるということも言える。公用や、ごく少数が許可されたアマチュア無線局はこの例であろう。
短波受信の始まり
1920年代は短波の黎明期であり、法律で規制されていても熱心なアマチュアは短波の実験を繰り返し、アマチュア無線の基礎を作った(1)。無線雑誌はこれらの動きに呼応して短波送受信機の解説、製作記事を掲載するようになった(2)。世界初の短波放送は、1928年12月24日のオランダによるものとされる(3)。その後1934年にかけてヨーロッパ各国が開始している。これらは当初各国の植民地向け放送であった。日本は世界で8番目に、1935年6月1日に北米向け国際放送を開始した。アメリカの国際放送の開始は遅く、1937年になってからである。これはFCC(連邦通信委員会)により短波の商業放送が禁止されていたためである。1939年にこの規制が解除され、大出力の国際放送が始まった。1942年以降は戦時下の徴用によりVOA(Voice
of America)となった(3)。欧米では、1932年頃から家庭用のオールウェーブセットが発売されるようになり、特にアメリカでは短波付のセットが増加した。また、熱帯地方では電波伝播やサービスエリアの関係で、ローカル放送に短波が使われるようになり、全波受信機が多く使われるようになった。
全波受信機の生産台数が統計に表れるのは1940年からである。では、それ以前はどんな状況だったのか?。残された資料から探ってみよう。この頃、卸問屋では「卸商報」と呼ばれるカタログを発行していた。商報には興味深い広告が掲載されている。
富久卸商報1935年新年号
アメリカ製のスパートン製ラジオの輸入品の広告である。良く見ると長波、短波付のオールウェーブであることがわかる。
次は日本製のセットの広告である。
伊藤卸商報1936年6月号(1935年から同じ広告あり)
これは三田無線電話研究所の広告である。ここには「台湾、満州、南洋及び国外の日本人は本器によりて直接毎日の海外放送が楽しめます」とある。一応断り書きを入れているのであるが、価格の表記は日本円である。もちろん、満州や朝鮮などはいわゆる「円ブロック」のため、日本円で取引できたので不自然ではない。同じ広告の別の部分を見てみよう。
伊藤卸商報1936年6月号
比較的簡易型の家庭用オールウェーブ5球スーパーである。この広告の文章にある「内地各局海外数十局の安定せる受信も出来る」とは、どこで使うことを考えての文章なのだろうか。許可されるはずのない全波受信機がごく普通に販売されていたように見える。では実態はどのようなものだったのだろうか。無線と実験、1935(昭和10)年3月号の「レディオ界の横顔を語る 新様式"誌上"レディオ座談会」という記事に興味深い記述がある。
全波受信機に関する記述を要約すると、
店頭では絶対に聴かせてくれない。売ることはできるが働かせることはできない。
なんとなく買い込んでいって密かに聞くことが公然の秘密みたいになっている。
いまのところ特別にこれに対する取締りの規定がない。
といったところである。この記事で紹介されている輸入されていた全波受信機のひとつを紹介する。
G-E Radio Model M-51 General Electric Company (U.S.A.) 1936
TUBES: 6A7 - 6D6 - 6B7 - 41 - 80 , Electro-dynamic Speaker, BC:540-1720kc, SW: 5.4-18Mc
GEの中型全波受信機である。標準的な短波帯を備える2バンド5球スーパーである。大型で丈夫なセットだが、きわめて合理的に作られていることがわかる。このセットは近年アメリカから持ってきたもので、日本にあったものではない。キャビネットは本来薄いニス塗りである。このキャビは濃い色で再塗装されている。
(Collection No. 11723)
TOP
前述のように全波受信機に対して輸入、販売、所持を規制する規定はなかった。許可されず、使えないものを売るはずがないということだろうか。また、聴取許可は逓信省、電気器具の販売は商工省、税関は大蔵省と、省庁の縦割りもこのような不透明な状況の原因となったと思われる。また、このような高価な輸入受信機を購入できる富裕層は、一般に「有力者」であることが多い。このことも、本来違法であるはずの全波受信機が大手を振って売られるていても見逃されていた理由のひとつだろう。
また、海外放送は中波帯にも存在した。1938(昭和13)年のミタカ電機(アリア)の広告には、高級型のスーパーシャーシの説明に、「本機の受信能力は出力強大と音質の良好なる事は申すに及ばず、スーパー受信機としての無線周波数拡大部の完全シールドを十二分に生かして居りますのでフェイディングの影響は少しも心配なく海外放送受信にも楽にうけられます。」とある。セットの性能を誇示するための宣伝文句ということで海外放送受信を奨励しているわけではないと言い訳するのであろうか。この頃までは、短波受信機や海外放送受信については、取り締まりもゆるく、存在は黙認されていたようである。
「無線と実験」誌は、日本のラジオ技術の発展のためには、短波を開放すべしという持論を展開していた。多くの短波受信機の製作記事や解説記事が掲載され、その著者の多くが逓信省関係者であったことは興味深い。しかし、1936(昭和11)年6月号に斉藤 健氏による「外国放送局の聴取とオールウェイヴ受信機」という記事が掲載され、全波受信機の使用や外国放送の聴取が違法行為で厳禁であるという当局の「公式見解」が掲載され、一応野放し状態に釘を刺すことになった。
戦前期、短波受信に正式な許可が下りたものの一つがアマチュア無線局であった。1927年以降許可されるようになったアマチュア無線局は1935年頃には200局近くに増えていた(1)。当時は7Mc、14Mcなどの短波帯で電信での交信が主流だった。このため受信機は簡単なもので良く、アメリカではすでにナショナル、コリンズなどの市販のアマチュア用通信型スーパー受信機が多く市販されていたが、日本では再生式の自作セットが主流だった。受信機の形式は「高周波増幅の段数」-「検波回路の形式」-「低周波増幅の段数」の記号を並べて表記した。高周波増幅1段、真空管による再生検波、低周波1段の受信機であれば1-V-1となる。次に戦前にアマチュア無線局で使われたと思われる短波受信機を紹介する。
1-V-1 自作短波受信機 高一付き再生式 1937年頃
TUBES: 58-57-56-12B
コンパクトにまとめられた手製の短波受信機。プラグインコイルでバンドを切り替える。プラグインコイルは天板のねじを外さないと交換できない。ほとんどバンド切り替えをしない前提の設計である。アマチュア無線用受信機は、家庭用のラジオのほとんどが交流化された1930年代に入ってもノイズを嫌って電池式とすることが多かったが、1935年以降は徐々に交流式が増えてきた(1)。
レシーバを使用するため、低周波増幅は電力増幅部がなく、電圧増幅1段なので電源トランスは小型だが、厳重にシールドされ、チョークコイル3個と電解コンデンサによって大掛かりなフィルタが構成されている。ケースは薄いアルミ板をねじ穴を加工した真鍮の角棒をアングルとして組み立てている。手間のかかる方法だがプレスなどの設備を持たないアマチュアでも容易に組み立てられる構造である。シールドのためにねじのピッチは細かく打たれている。このように、アルミケースを使い、各段ごとにシールドの仕切りを入れた構造は1930年代までの短波受信機の典型的なものである。
ホットケーキダイヤルとバリコンは電池セット時代の旧式なものを使っているが、真空管は当時としては最新の国産品を使っている。トランスやコイルのボビンは錦水堂(ラックス)、古河製炭素皮膜抵抗器など、国産品の中では一流の部品が使われている。電解コンデンサが1個、1956年の日付のあるものに交換されている。このことから戦後まで使用されたと思われる。
(所蔵No.11A167)
アマチュア無線局は、運用時間の制限などはあったが、日中戦争が始まって以降の戦時下にあっても活動が許可されていた。また、愛国無線通信隊や国防無戦隊といった形で防空演習などに協力するなどしていた。しかし1941年以降は開局の条件が厳しくなり、太平洋戦争が始まった同年12月以降は、アマチュア局に対し使用停止命令が出され、設備が封印された。これ以降も国防無戦隊の形で活動した例はあったが(1)、短波受信が一般のアマチュアに許可されることはなくなった。
日中戦争の激化に伴い、「非常時」という言葉が盛んに使われるようになる。資材、外貨統制の面から、1937年11月、一般用のラジオ、電蓄の輸入は輸出入品臨時措置法により輸入禁止となった。この頃から、黙認されてきた短波受信機や、海外放送の受信に対して、規制が明文化されていく。ラジオ年鑑昭和12年版には、昭和10年版にはなかった「ラヂオの申込、住所変更、名義変更、廃止の手続」」が掲載されている。
この中の「聴取契約解除と許可失効並に許可取り消しに就て」から抜粋する。
(三)次の場合には許可を取り消されることがあります(無線電信法第九条)
(イ)内地放送局の放送以外の放送や通信を聴いたとき
(ロ)(ハ)略
尚注意を要することは、ラヂオは日本国内の放送局で放送する放送事項を聴取する以外に之を使うことが出来ないことでありまして、若しこのラヂオの装置を利用して他の通信を聞くなど致しますと目的外の使用として千円以下の罰金に処せられます(法第十七条)
翌13年版では、これが「放送聴取の心得」とタイトルが変更された。
1939(昭和14)年11月1日、逓信省令第五十一号として「無線通信機器取締規則」が施行された。これにより、いままで野放しだった無線通信器機の販売に規制がかかることになった。販売事業者は逓信局長に届出が必要になり(第二条)、施設許可書と引き換えでなければ無線通信機器の引渡しが出来ないこととなった(第三条)。ただし、中波受信機の引渡し、官庁用、軍事用、輸出、業者間の取引については許可書を要しなかったが、軍用以外の取引は後日逓信局長に届出が必要になった(第四条)。また、中波受信機を除く無線通信機器の輸入には逓信大臣の許可が必要になった(第五条)。違反に対しては100円以下の罰金又は科料の罰則が設けられ、従業員個人の違反に対して法人も処罰される規定が設けられる厳しいものだった。卸問屋に関しては事業者間の取引のため施設許可書の確認の必要はなかったはずだが、この規定は、下請けの工場と本社との間の取引といったものを前提としたもののように思われる。これ以降、卸商報から海外放送や短波受信を勧めるかのような表現はなくなっていく。
戦争が激化してくると、防諜が盛んに叫ばれるようになり、短波受信はスパイ行為の疑いとして厳しく取り締まられるようになった。多くのラジオアマチュアや技術者が購読していた「無線と実験」誌1942年11月号には、逓信省電務局の石川武三郎氏による「全波・短波受信機の取締について」という、主に無線通信器機取締規則の解説を中心とした電波防諜に関する厳しい調子の記事が掲載された。この記事を見ると、当時輸入または持ち込まれた外国製全波受信機がかなりあったこと、また、技術の発達を阻害しないように慎重な運用がなされてきたことが記されている。記事の調子と違って内容は厳しく摘発するというよりは、規則を周知徹底して業界や関係者の自発的な届出に期待するという姿勢である。ちなみに、この記事が掲載された次のページには、東邦電機(株)無線部長、住吉正元氏による連載「実用短波受信機設計・製作講座
4」が、引き続き掲載されている(7)。短波の解放を主張していた無線と実験誌の反骨精神というところだろうか。
これらの記事を見てもわかるが、思想面で問題のある人物や本物のスパイでもない限り、短波受信に対して厳しく処罰されるようなことは少なかったようである。これに対してナチス・ドイツでは国外の放送受信に対しては苛烈な取り締まりが行われ、違反者には死刑も適用された。ユダヤ人に対してはラジオの所有、聴取そのものを禁じるほど徹底していた。この違いには民族性だけでなく、地政学的な条件の違いが大きく影響していると思われる。やはり島国の日本では海外放送の影響は限定的と考えられていたのだろう。
皮肉なことに、海外放送受信への締め付けが厳しくなってきた1938年末、業界を挙げて輸出用全波受信機の研究が始まった。1938年5月20日、通信機器のメーカ、逓信省、商工省関係者が中心となって通信機器の技術振興と海外進出に寄与することを目的として、電気通信協会が設立された。電気通信協会は、国内向けのラジオ振興を目的とした団体、日本ラヂオ協会と共同で「全波受信機調査委員会」を設置し、外国製全波受信機の研究を通して国産全波受信機に必要な部品などの規格を検討することになった。1939年に入り、逓信省と商工省は「全波受信機特別委員会」を設置して共同で受信機の開発と海外進出の方針を検討することになった。2月に同委員会はメーカー5社(日通工、松下無線、七欧無線、三田無線、山中電機)に全波受信機の試作を発注した。3月に完成し、電気通信協会に提出された試作品の出来は、残念ながら外国製に比べてかなり劣るものであったという。これに続いて2次試作が行われ、電気通信協会技術調査委員会は、全波受信機の標準方式を決定した(4)。この頃から、専門誌には、南方輸出向けと称する国産全波受信機の広告が掲載されるようになる。
無線と実験1941.7
また、ラジオ受信機調査委員会の検討により、日本及び中国大陸の状況を考慮して中間周波数を463kcとすることが推奨された。この中間周波数は戦後広く採用されることになった。
全波受信機の広告はラジオ放送が始まった頃からスーパーに取り組み、高級受信機を少量生産していた三田無線、原崎無線工業の広告が最も早く、量も多いが、この原口無線のように家庭用受信機を主に生産していたメーカも全波受信機に取り組むようになった。この広告の左端には「全波受信機の使用に際しては其の筋の認可を要します」とある。輸出用と謳いながらも国内で販売することを前提にしたものなのだろうか。まだ開戦前でアマチュア無線も認められていた状況だから許されたのだろう。
電気通信協会の機関誌「電気通信」には、ラジオの輸出に関するメーカ各社の関係者による座談会が何度も掲載されているが、いずれも十分な性能を持つ全波受信機を低いコストで作ることが困難であることが嘆かれ、国内で全波受信機が許可されていないために大量生産が出来ず、技術者、作業者の経験も積めないことが足かせとなっていることが語られている(5)。 先述の「無線と実験」ばかりでなく、海外進出を望むラジオ産業関係者の多くは短波の開放を求めていた。逓信省や商工省はそれなりに理解を示したようだが、国内の治安を司る内務省は動かなかったという(4)。
先述のようにラジオの輸入は禁止されていたが、1941年末の太平洋戦争開戦までの間、研究用や公用のためにごく少数の外国製受信機が輸入された。その1台が次に紹介するRCAの1940年型オールウェーブである。
RCA Victor Q-33型 8球5バンドオールウェーブスーパー RCA Manufacturing Co.(U.S.A.) 1940年
![]()
![]()
シャーシとその裏側、改造のためUZ-85を押し込んでいる
シャーシ後ろ側の封印の痕跡、"TED"および「保」の文字が見られる
TUBES: 6SK7-6SA7-6SK7-6SQ7-6AD7G-6F6G-5Y3G-6U5/6G5, BC: 550-1720kc, SW1-4: 3-22.5Mc, Electro-dynamic Speaker (8")
太平洋戦争開戦直前のRCA製高級全波受信機。メタル管とG管で統一された高一付5バンドである。この機種は輸出用を考慮され、トランスのタップにより100-130,140-160,200-250Vを切り替えることができる(アメリカ国内用もあった)。3極5極管6AD7の3極部を位相反転に使い、5極部と6F6でプッシュプルとして自社製8インチフィールド型ダイナミックを駆動する。高周波部は、中波のほかに3-22.5Mcの短波帯を4つに細かく分け、生産性を向上させると共に放送が多い部分を拡大することで操作性の改善を目的とした「バンド・スプレッド方式」を採用している。バンドスイッチツマミは中央にあるが、ロータリースイッチはバリコンの下に配置されている。このため、ツマミが付いているシャフトからリンクを介してスイッチを動かしている。キャビネットは幅54.5cm、高さ34.5cmの大きなもので、頑丈に作られている。あらゆる面で当時の国産品よりはるかに高い技術レベルと高品質を実現している。
この機種のバンドスプレッド方式や、シャーシ構造、回路構成などは、ビクターが戦後すぐに発表した5AW-1型「黎明」受信機に大きな影響を与えている。
本機は、戦後も修理を繰り返されながら長く使われたようである。3極5極管6AD7は入手が困難だったらしく、6F6に改造し、位相反転部は、3極部の相当管UZ-85(マツダ製放出品)をシャーシ下に押し込んでいる。
本機は、キャビネットの保存状態が悪く、ダイヤルガラスが破損している。
(Collection No.11651)
TOP
このセットは当時日本に入ったものらしく、シャーシに封印した形跡が見られるが、短波の回路を改造した形跡は見られない。ツマミを外すか封印する程度の処置が行われていたものと思われる。本機は、「ラヂオの日本」誌1943年1月号に、電気通信協会の委嘱により技研の技師による解説記事が掲載されている。南方向け輸出のための参考ということだが、6頁にわたる詳細な記事である。
戦争末期となっても、次に示すように専門誌には輸出向け全波受信機の広告が掲載されていた。
(無線と実験1944.2)
上記の広告にある原崎無線のセットの類似機種を見てみよう。
ローヤル JA-9型 8球4バンドオールウェーブスーパー 原崎無線工業(株) 1943年ころ
TUBES: 6D6 6A7 6C6 6D6 6D6 75 76 42 80 , LW:150-300kc, BC:550-1500kc,SW1: 4-11Mc, SW2: 8-20Mc
Electro-dynamic Speaker (Royal, 6.5"),
スーパーの老舗、原崎無線の長波付8球4バンドオールウェーブである。高一中二でAVCを備える。幅63cm、高さ32cm、奥行30cmの巨大なキャビネットに通信機用の高級パーツをふんだんに投入した大きなシャーシが納められている。全てタイト製の真空管ソケットとトリマ、リンクで結合されたバンドインディケータ、2軸の微動ダイヤルなど、凝った機構で工作も丁寧である。この機種は、盛んに宣伝されていた南方向け受信機JA-8型に長波を追加したものである。電源電圧は100V、銘板の表記は日本語である。長波のダイヤルには180kcのところにマーキングがある。180kcは当時満州で使われていたバンドである。従って、この機種は満州向けの受信機と思われる。このセットは木製キャビネットに収まってはいるが、家庭用ラジオとしてはあまりにも大きく、立派過ぎる。原崎無線は家庭用全波として5球のモデルも用意していた。JA-8,9型は公用を目的としたものであろう。キャビネットに規格品の標章が表示されていることから、キャビネットは別の専門メーカで製作されたものであることがわかる。
本機は、非常に良くオリジナルが保たれているが、コンデンサがパンクしたらしく、コンデンサとトランス、整流管が戦後のものに交換されている。
また、第二検波管UZ-75は、6ZDH3Aに改造されている。
(Collection No.11847)
TOP
同じ無線と実験1944(昭和19)年2月号には、通信機/高級受信機専門メーカの三田無線電話研究所の広告も出ている。
(無線と実験1944.2)
三田無線の広告にはたいていの場合、日本円による定価が明記されいてるが、最高級機種の\1,500という価格は信じられないほど高価である。
この広告にある8球DAR-4型の類似機種を見てみよう。
デリカ AC型 8球4バンドスーパー 三田無線電話研究所 1942年頃
TUBES: 78 - 6L7G - 76 - 78 - 78 - 6B7 - 42 - 80, Electro-dynamic SP. (DELICA type F)
通信機や高級受信機、電蓄などを少量生産していた三田無線電話研究所は、早くからスーパーに取り組んでいた。この大型のセットにシャーシに使われている部品は通信型受信機に使われているものと同じである。家庭用受信機のような体裁にはしているが、実際には通信機そのものである。製造番号からこの製品は1942(昭和17)年製と思われるが、大戦末期の広告にもほぼ同じキャビネットの写真が掲載されている。小変更を繰り返しながらか、細かいバリエーションを作りながら作り続けられたものと思われる。
マジックアイとパイロットランプは戦後追加されたものであるが、シャーシはほぼオリジナルを保っている。
78の代わりに戦後の6D6が使われている。昭和30年頃までは使われたようである。
(Collection No. 11A162)
通産大臣官房調査統計部の資料から、終戦までの全波受信機の生産量をまとめてみる。データがあるのは1940年以降である。
年度 | 1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 |
生産量(台) | 40 | 1,363 | 2,308 | 1,248 | 2,753 | 1,119 |
(1945年は戦後の短波解放後の台数を含む)
この数は、当時国内販売が許されていた中波スーパー受信機の1/10程度である。この中には上述の輸出用セットが大半を占めていると思われるが、実際には、海外製品に対して競争力のある製品を作ることは結局できなかった。受信機の実態は先にに紹介したRCAと原崎のセットを比べてみれば一目瞭然である。先述の全波受信機委員会は、1942年5月、新たに設置された南方電気通信調査会に吸収された。
全波受信機の生産はごくわずかであったが、先述のように日本国内での短波受信機の取り締まりはそれほど徹底したものではなかった。様々な証言を総合すると、相当な数の短波受信機(その多くは自作や改造である)が存在し、こっそりと聞かれていたようである。また、放送局、軍、通信社、官公庁など正式に許可を受けて短波受信機を使用できる立場の人物は相当数いたのである。英語を解することができた昭和天皇も短波放送でBBCなどから正確な?情報を得ていたという。
サイパンが陥落すると日本向けの日本語放送が送信されるようになった。現在も続くVOA(Voice of America: アメリカの声)であるが、当時は日本で短波受信が禁止されていることから中波でも放送された。プログラムを印刷したビラ(伝単)が米軍機から散布された。次にこの1枚を示す。周波数は850-1100kcと幅を持たせている。日本側が妨害を仕掛けたため周波数を変更しながら放送したためである。
(個人蔵)
受信状況を考慮して夕方から夜間にかけて放送されているが、サイパンからの中波では相当高性能のラジオでも受信は困難だっただろう。ただ、左端の注意書きにあるようにこの放送は短波でも放送されていた。この短波放送は日本の軍事通信のすぐ近くのバンドでも放送されていたという。レシーバでモニターしていた軍の通信兵は、少しダイヤルを動かすだけで簡単に聴くことができた。このため、8月15日に戦争が終わることも数日前に知っていたという(岡部憲二氏の証言による)。通信に携わっていれば下級の兵士であっても短波放送に触れることはできたのである。近く終戦になることなど、重要な情報を知っていた日本人は、実はかなりの人数だったと思われる。
電気通信委員会を中心とした輸出用全波受信機の開発は、外貨獲得という意味ではたいした成果を生むことはなかったが、ここで開発されたセットと、その技術は、戦後の国産全波受信機に生かされることになった。終戦直後の1945年9月18日に、占領軍により短波が解禁されると、1946年には多くの全波受信機の試作機がラジオ雑誌の誌上をにぎわせていた。早くも1946年1月21日には、電気通信協会主催で「全波受信機展覧会」が開催され、20社を超える出展があったという(6)。これらの多くは戦時中に開発されたと思われる。原口無線は、先に紹介した1941年の643型とまったく同じ外観で回路を手直しした643-B型を新型として発表している。NEC、沖など専業の通信機メーカがいち早く全波受信機でラジオ業界に参入したが、一般のラジオメーカで早い時期に全波受信機を発表している会社の多くが1939年に逓信省などの依頼で全波受信機を試作したメーカであるのは興味深い。その後、占領軍を通して大量に流入したアメリカ製のセットや文献から日本のメーカは技術を吸収し、全波受信機の完成度を高めていったのである。
(1)アマチュア無線の歩み (社)日本アマチュア無線連盟編 CQ出版社 1976年
(2)無線と実験 大正15年4月号 無線実験社
(3)NHK戦時海外放送 海外放送研究グループ編 原書房 1982年
(4)「並四球」の成立(2) 平本 厚著 科学技術史 第9号 2006.10 日本科学技術史学会
(5)電気通信 第2巻第6号 1939.10 電気通信協会
(6)無線と実験 1946年3月4月合併号 誠文堂新光社
(7)無線と実験 1942年11月号 誠文堂新光社